アガルタ無情
渡し舟がアガルタの桟橋に吸い寄せられる。ウィンにとって、この地の空気は初めてではない。かつて記憶の片隅に焼き付いた、焦げ付いた回路の臭いと、肌を刺す凍てついた冬の空気が、再び彼を迎え入れた。
「……変わらないね、ここは」
ウィンは呟き、膝の上の鞄を抱え直した。その中には、帝国が血眼で追っているはずの「シャード」が眠っている。
ハル・アレナディオは船縁に立ち、無機質な瞳で光の渦を眺めていた。アガルタを覆う、過負荷のリアクターが吐き出す極彩色の光。その照り返しを受けて、ハルの乳のような白さの肌は青白く沈んでいる。
「ウィン、鞄を。ここからは、一歩ごとに命の価値が変わるわ」
ハルの言葉は平坦だが、拒絶できない重みがある。彼女の視線は、ローランドの腰に新たに加わった一振りへと向けられた。
轟魔刀『刃桜』。
ローランドは愛刀の感触を確かめるように手を添え、眼鏡の奥で不敵な光を宿した。
「ヤシマの古い伝承にある、西の刀匠の遺作だそうです。その匠は、散りゆく桜の刹那を鋼に閉じ込めようとした……」
ローランドがわずかに鯉口を切ると、手が微かに震え、狂い咲く桜のような文様が刃の上に踊った。この刀は、その美しい見た目とは裏腹に、ただひたすらに鋭利な切れ味だけを追求して鍛え抜かれた無骨な一振りであった。
「さて、行きましょう。カジュナート技術准将が『限定範囲転移弾(EBTG)』の実験データに夢中になっている間に、我々がすべきことを果たすまでです」
帝国はまだ知らない。自分たちが失ったと信じている勝利の鍵が、今まさに、一人の少年と二人の異端者によって、この狂乱の島へと持ち込まれたことを。三人の影は、リアクターの喘ぎと雑多な足音に紛れ、アガルタの深い闇へと溶け込んでいった。
*
アガルタの冬は、逃げ場のない冷気に支配されていた。天蓋を埋め尽くすように這う導管の中を、高濃度の保冷液が血流のように流れ、過負荷となったカバラ回路の繋ぎ目からは、制御しきれないエネルギーが極彩色の火花となって絶え間なく散っている。カバラ機器は独自の論理で駆動し、ただ冷厳な冬の闇の中で、その異質な光だけを脈動させていた。
「ローランドさん、この先のルートは?」
寒さに身を縮めながら尋ねるウィンの問いに、ローランドは『刃桜』の鞘を軽く叩き、暗い路地を指し示した。
「表通りは、カジュナート准将の息がかかった私兵どもが目を光らせています。彼らにとって、この街は実験場であり、同時に自分たちの権威を誇示するための庭に過ぎません。カバラの光が届かない場所ほど、彼らの管理が行き届いていない、格好の抜け道になります」
三人は、建物の隙間に潜むようにして移動を開始した。
アガルタの地下には、廃棄された旧世代のカバラ回路や、劣化した冷却液が滴る廃管が血管のように走っている。そこは浮浪者や犯罪者、あるいは光の世界から零れ落ちた者たちが、凍てつく闇の中で回路が漏らす不快な音と微かな燐光に縋って生きる場所となっていた。
ハルが先頭に立ち、時折足を止めては闇の奥を見据える。彼女の感覚は、感情というノイズがない分、獲物を追う猟犬のように鋭い。
「……正面、三つ先の角。生体反応が二つ。帝国軍の巡回ドローンではないわ。おそらく、街の掃除屋か何か」
「厄介ですね。無用な騒ぎは避けたいところですが……」
ローランドが苦笑いしながら歩みを緩めた瞬間、闇の中から二人の男が飛び出してきた。彼らは、。帝国の、カバラ技術を盲信しすぎた「ソルダート」の成れの果てだ。
「……その鞄。中にいいモノが入ってそうだな?」
男の一人が、濁った瞳でウィンの持つ鞄を睨みつけた。ウィンは反射的に鞄を抱え込み、後ずさる。
「ウィン、下がって」
ハルの声が響くより早く、ローランドが前へ出た。彼はまだ、刀を抜いていない。
「お引き取り願えませんか? 私たちはあいにく、急いでいるものでして」
「黙れ! よこせ!」
ソルダートが、魔導液を噴き出しながら振動する重厚な得物ツヴァイハンダーを振り下ろした。
その刹那、キィン、という短い金属音だけが路地に響いた。
ローランドが動いたのは一瞬だった。抜刀、そして納刀。その動作の間に、何が起きたのかを目で追えた者はいなかった。ただ、男の手元にあった武器が、まるで見えない糸に切られたかのように真っ二つに分かれ、地面に転がった。
「……なっ!?」
「次は、その汚い頭を切り離しますよ。そうなれば、二度と動けなくなる」
ローランドの声は穏やかだったが、その手に握られた『刃桜』の刀身は、怪しげな光を反射して、ぞっとするような冴えを見せていた。特別な魔術も、仕掛けもない。ただ、空気すらも抵抗なく切り裂く圧倒的な「鋭さ」だけが、そこにあった。
ソルダートたちは恐怖に顔を歪め、脱兎の如く闇へと消えていった。
「助かりました、ローランドさん」
「いえ。やはり、いい刀です。私の拙い剣筋を、道具の方が補ってくれる」
ローランドは再び『刃桜』を腰に収め、歩き出した。
ハルは、その一部始終を無感動な瞳で見ていたが、ふとウィンの肩に手を置いた。
「ウィン、集中して。ここはまだ、入り口に過ぎない。准将の施設……『鳥籠』の防衛網は、カバラ技術の粋を集めた代物よ」
三人は再び、アガルタの深部へと向かう。
頭上では、巨大なリアクターが唸りを上げ、実験の開始を告げるカウントダウンのように、不気味な振動を凍り付いた街の地盤に伝えていた。
帝国は、自らが完成させようとしている『限定範囲転移弾(EBTG)』が、どのような結果をもたらすかを正しく理解しているのだろうか。
「……行きましょう。この街の夜が、白む前に」
ローランドの言葉を合図に、三人はさらに深い闇へと、その身を投じた。
帝国が誇る最先端の狂気。それを止めるための鍵を、少年は今、その手の中にしっかりと握りしめていた。アガルタの喧騒は、三人の影を飲み込み、ただ冷たく歪な光だけが、彼らの歩む道を照らし続けていた。
道は次第に険しくなり、カバラの光が届かない廃墟のような区画へと差し掛かった。
「ローランド、止まって」
ハルが短く制した。彼女の視線が向けられた先、厚い鉄扉の向こう側から、一定の周期で繰り返される重厚な駆動音が漏れ聞こえてくる。
「……来ましたね。准将直属の防衛隊、その検問所です」
ローランドは腰の『刃桜』の柄に指をかけた。
ここを抜ければ、目的の施設は目の前だ。しかし、これまでの街のならず者とは比較にならない、訓練された帝国兵の殺気が、冬の冷気に混じって漂ってきている。
ウィンは鞄を抱き締め、目の前の鉄扉を見上げた。
「おれが、これを使えば……少しは役に立てるかな?」
ウィンが鞄に手をかけるのを、ハルが制した。
「まだよ。それは最後の手段。まずは私たちが、あなたをあの中まで送り届ける」
極彩色の火花が散る夜空の下、三人の影は、決戦の地となる施設へと静かに、しかし力強く踏み出していった。




