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ガラス張りのエントランスに、自分の姿が映る。
紺のジャケット。淡いシャツ。白衣ではない。
肩の位置をわずかに整える。
今日は法医学者ではなく、「訪問者」だ。
――“医療監修の相談って言えば、大体は通るのよ”。
根拠の薄い濱宮さんの助言は、結局効かなかった。そりゃそうよ。
だからこそ、事件の断片をあくまで軽く匂わせ、専門家としての懸念を論理的に並べた。その結果が、今ここにある。
受付で名を告げると、編集部フロアへ通された。
紙の匂い。インクの乾いた甘さ。淹れたてのコーヒーの苦味。
壁一面の装丁見本。
忙しなく行き交う編集者と、絶え間なく鳴る内線。
文学は、こんなにも実務的な場所で生まれているのか、と浅木は思う。
「こちらです」
案内されたのは、小さな応接室。
低いソファと丸いテーブル。窓の外には春の空が薄く広がっている。
「先生はもうすぐいらっしゃいます」
先生。
まだ28歳の作家に向けられる敬称が、どこか現実味を持たない。
3つ年上。敬語でいい。
いや、そもそも今日は取材だ。感情を混ぜる必要はない。
ドアが静かに開いた。
「お待たせしました」
落ち着いた声。
顔を上げる。
想像より、ずっと若い。
女性の平均身長より高い印象で、細身。流れる茶色の長髪。眼鏡越しの瞳は、こちらを測るように静かだった。
「――咲白朱莉と言います」
軽く頭を下げる。
28歳で、あの描写を書くのか。
若さの奥にある、妙な圧。私は一瞬、言葉を失う。
「法医学の浅木真琴です」
名刺を差し出す。
咲白さんは受け取り、ほんの一瞬だけ目を留める。
「……法医学」
その二文字が、部屋の空気をわずかに締めた。
咳払いを一つ。
「先生の著作の中に、我々が扱った症例と酷似する記述がありまして」
ソファに腰を下ろす咲白。背筋は自然に伸びている。
私も編集長に続いて座る。テーブルには紅茶。まだ湯気が細く立っている。
「フィクションですよ」
微笑む。
否定でも肯定でもない、余白のある笑み。
角谷から借りた本を置く。
付箋が幾重にも貼られている。移動中に貼った跡だ。
「この箇所です」
ページを開く。
「円形の圧痕。内部破壊。外傷なし」
咲白が静かに読み上げる。
編集長の視線が、二人の間を行き来する。
「どうして、ここまで具体的に?」
咲白は少し考える。困惑というより、遠くを見る顔。
「それが思い出せないんです」
「思い出せない?」
「これを書かなきゃいけない、そう思ってこの小説を書いたのは覚えてるんです。気づけば、こういった能力者ものを書いていました」
「その構想を考えたのはいつ?」
「私が大学生の時に……」
私は紅茶を口に含むその時
ブシャー!!!
咳き込み、盛大に吹き出す。
「すいません!!」
視線の先。
咲白さんの白い服に、紅茶の飛沫が小さな点を刻んでいる。
「すいません!!すぐハンカチを!!」
編集長がこちらに向ける険しい顔で立ち上がる。
「いえいえ、そんな気になさらないで」
咲白さんは一歳揺るがずに穏やかだ。声が場を静める。
深く頭を下げる。
「本当に申し訳ございません!!大学の時から書いていたというのが衝撃的すぎて」
「そんなことないですよ、執筆は大学生からですが、部屋にあった日記というか記録から着想を得ましてね」
「空想の世界を日記に書いてたんですか?」
「そうですよね、おかしいですよね」
咲白さんは軽く笑う。だけど目は笑っていない。より疑念が深まってしまう。
「では、なぜ“心臓が内部から壊れる”という発想に?」
咲白さんは、わずかに首を傾ける。
「医学的に正しいかどうかは分かりません。ただ、“外側は無傷なのに、中だけが壊れている”というイメージがあったんでしょうね」
作っているのではない。
思いついたのでもない。
――実際に見ている。
そう直感する。
鼓動が一拍だけ、重くなる。
「ちなみに、その時の日記ってまた後日見せてもらうことってできますか?」
沈黙が落ちる。
窓から照らされる光が、咲白の頬を淡く縁取る。
指先がカップの縁をなぞる。かすかな陶器の音。
編集長が息を詰める。
「ええ……構いませんよ」
柔らかい声。
拒絶も躊躇もない。
* * *
あれから数日が経った、搬入口のシャッターが上がる音は、どこか鈍かった。
油の切れかけた金属が擦れ合い、低く長い残響を引く。
まだ陽の差しきらない薄青い光が、コンクリートの床を湿った色に染めていた。
白衣に袖を通す。
ストレッチャーが押し込まれる。車輪の小さな振動が床を伝う。
搬送担当の警察官が二人。濃紺の制服の襟元まできっちり留められているが、その視線は固い。
「今回も警視庁案件です」
濱さん宮が、マスク越しに小声で告げる。目だけがこちらを窺う。
黒い搬送袋のジッパーが、ゆっくりと下ろされる。
金属音が一直線に空気を裂く。
視界に入った顔を見た瞬間、私の呼吸が止まった。な、なんで……
――2、3日前に会っていた神谷刑事の遺体。
数日前、この部屋で腕を組み、静かに状況を語っていた男。
ネクタイを緩めながらも、目だけは鋭かったあの刑事。
その同じ顔が、今は無言で横たわっている。
血の気を失った頬。閉じられた瞼。わずかに開いた唇。
濱宮さんも息を呑む。
「……嘘でしょ」
解剖台のステンレスが冷たい光を反射する。
一歩近づく。ゴム底が床を擦る小さな音。
外傷はない。
首元も、こめかみも、指先も。
むしろ穏やかに眠っているようにすら見える。
「死亡確認は?」
搬送担当の警官が、帽子を脇に抱えたまま答える。
「今朝五時過ぎ。路上に倒れているのを通行人が発見しました」
「路上?」
「被害者男性に恨みを持つとされている人物の自宅近くです」
解剖室の温度は一定のはずなのに、空気が一段低く感じる。
「昨夜、その人物の自宅を訪問していました」
ふと視線が上がる。ゴーグル越しに警官を見る。
「一人で?」
「はい。防犯カメラには21時19分に入る姿が映っています」
壁際の時計の秒針が、やけに大きく聞こえる。
「出てくる映像は?」
「その30分後にエントランスから出てきてますね」
濱宮さんが顔を上げる。白衣の襟元がわずかに揺れる。
「では、室内で何か――」
「部屋には誰もいませんでした」
言葉が、静かに落ちる。
金属台に水滴が落ちるように、確実に。
「訪問後、連絡が途絶え、本日神谷刑事の遺体を未明に発見。恨みを持つ人物は依然として所在不明です」
被害者男性死亡。
怨恨の可能性。
失踪した元同僚。
神谷刑事が訪問。
そして死亡。
そして――外傷のない遺体。
偶然という言葉が、音を立てて崩れる。
「その容疑者と思われる人物の名前は?」
空気がぴたりと止まる。
「それは……解剖に関係ないでしょ?」
警官の声は低い。線を引く声音だ。
だが、角谷さんが静かに口を開く。白衣の袖を整えながら。
「関係あるかもしれません」
警察関係者が深くため息をこぼす。
視線が一瞬、遺体に落ちる。
「あくまで、可能性なので、下手なことは考えないように。いいですね?」
約束という名の制限。
それを条件に、ようやく告げられる。
前川結城。
28歳。子会社勤務。
名前だけが、解剖室に残る。
* * *
解剖が終わったあとも、神谷さんの胸骨の内側の光景が、瞼の裏に焼き付いて離れなかった。
メスを入れ、胸骨を開いた瞬間に広がった、あの異様な静けさ。
外側は無傷。皮膚も筋肉も、ほとんど損なわれていない。
内部だけが、圧し潰されている。前回と同じように、内側から握り潰されたかのように。
偶然ではない。連鎖だ。
白衣を脱ぎ、ロッカーに掛けながら、壁の時計を見る。午後四時を少し回っている。
「今日はもう上がれ」
角谷さんが、白衣のポケットに手を入れたまま言う。顔には疲労の影が落ちている。
「これ以上考えても、医学の領域は越えない」
濱宮さんも静かに頷く。マスクを外した唇が、わずかに強張っている。
「警察に任せるべきよ。私たちは死因を出す。それ以上は――」
“越境”。
あの刑事の低い声が、頭の奥で反響する。
――あくまで可能性なので、下手なことは考えないように。
神谷さんは一人で行った。真実に近づこうとしていた。そして死んだ。
ロッカーを閉める音が、やけに重い。
「少し、外の空気を吸ってきます」
* * *
神谷さんが最後に向かった場所。
内部資料の端に残った町名と番地の断片。
消し切れなかった情報は、十分だった。
理屈ではない。衝動。
夕暮れの街は、群青に沈みかけている。吐く息が白い。
私は黒のコートの襟を立て、マンションを見上げる。築十年ほどの、どこにでもある外観。ベージュの外壁、規則的なバルコニー。
エントランスのガラスに、自分の姿が映る。
白衣はない。ただの女。
戻るなら今だ。
だが、足は動かない。
オートロックの前に立ち、表札を見る。
前川。確かにある。
そのとき。背後で足音。
乾いたアスファルトを踏む、一定のリズム。
振り返る。そこに立っていたのは、ひとりの男だった。
二十代後半。細身。黒のコート。無造作に持ったコンビニ袋。
整った顔立ちだが、どこか影がある。
そんな彼と視線が合ってしまう。
「……どなたですか?」
落ち着いた声。夜の空気のように平坦だ。
名乗るべきではない。
だが、誤魔化す余裕もない。
「あなたが、前川結城さんですか?」
男の手が、わずかに止まる。袋の中でペットボトルが揺れる。数秒。
「そうですが?警察の方ですか?」
「違います。法医学者です」
男の瞳が、ほんの僅かに揺れる。警戒か、理解か。
「……神谷刑事の件で?」
心臓の鼓動が高まる。
「昨日、来ましたよ。刑事さん」
淡々としている。感情の起伏が見えない。
「何を話したんですか」
「元同僚のことです」
「どんな?」
エントランスの自動ドアが、背後で機械的に開閉する。冷たい風が二人の間を通り抜ける。
「……あなた、危ないですよ」
唐突な言葉。
「何が?」
声が震え始めている。
「この件に関わると」
背筋を冷たいものがなぞる。
前川が一歩、近づく。距離が縮まる。
その瞬間、気づく。
コート越しの胸元。わずかな歪み。布の奥に、押された痕のような不自然な凹み。
まるで。内側から、一度押されたような。
「法医学者なら、見ましたよね」
前川が囁く。吐息が白く揺れる。
「外傷がないのに、内部が壊れている遺体」
喉が乾く。
「どうして、それを」
前川は、かすかに笑う。諦めの色を帯びた笑み。
「俺は、逃げているわけじゃない」
さらに一歩。
「順番なんです」
「……順番?」
その言葉が落ちた瞬間。
遠くで、何かが軋むような音。
風ではない。圧力の波のような、耳鳴りに似た震え。
前川の表情が、初めて歪む。
「……来た」
次の瞬間、
見えない衝撃が彼を弾き飛ばす。
「キャ!!」
黒いコートが宙を舞い、コンクリートに叩きつけられる鈍い音。コンビニ袋が裂け、中身が散乱する。
「動くな!!!」
低く、覚悟を帯びた声。
闇の中から現れた黒い人影。
黒のジャケット、無駄のない構え。両手で握られた拳銃の銃口が、前川の頭部にぴたりと向けられている。
前川でさえ、驚いた表情を見せる。だが次の瞬間、相手の顔を認識し、息を呑む。
「篠崎(蓮)さん……」




