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3/3

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ガラス張りのエントランスに、自分の姿が映る。

紺のジャケット。淡いシャツ。白衣ではない。

肩の位置をわずかに整える。

今日は法医学者ではなく、「訪問者」だ。


――“医療監修の相談って言えば、大体は通るのよ”。

根拠の薄い濱宮さんの助言は、結局効かなかった。そりゃそうよ。

だからこそ、事件の断片をあくまで軽く匂わせ、専門家としての懸念を論理的に並べた。その結果が、今ここにある。


受付で名を告げると、編集部フロアへ通された。

紙の匂い。インクの乾いた甘さ。淹れたてのコーヒーの苦味。

壁一面の装丁見本。

忙しなく行き交う編集者と、絶え間なく鳴る内線。

文学は、こんなにも実務的な場所で生まれているのか、と浅木は思う。


「こちらです」


案内されたのは、小さな応接室。

低いソファと丸いテーブル。窓の外には春の空が薄く広がっている。


「先生はもうすぐいらっしゃいます」


先生。

まだ28歳の作家に向けられる敬称が、どこか現実味を持たない。

3つ年上。敬語でいい。

いや、そもそも今日は取材だ。感情を混ぜる必要はない。

ドアが静かに開いた。


「お待たせしました」


落ち着いた声。

顔を上げる。

想像より、ずっと若い。

女性の平均身長より高い印象で、細身。流れる茶色の長髪。眼鏡越しの瞳は、こちらを測るように静かだった。


「――咲白朱莉と言います」


軽く頭を下げる。

28歳で、あの描写を書くのか。

若さの奥にある、妙な圧。私は一瞬、言葉を失う。


「法医学の浅木真琴です」


名刺を差し出す。

咲白さんは受け取り、ほんの一瞬だけ目を留める。


「……法医学」


その二文字が、部屋の空気をわずかに締めた。


咳払いを一つ。

「先生の著作の中に、我々が扱った症例と酷似する記述がありまして」


ソファに腰を下ろす咲白。背筋は自然に伸びている。

私も編集長に続いて座る。テーブルには紅茶。まだ湯気が細く立っている。


「フィクションですよ」


微笑む。

否定でも肯定でもない、余白のある笑み。

角谷から借りた本を置く。

付箋が幾重にも貼られている。移動中に貼った跡だ。


「この箇所です」


ページを開く。


「円形の圧痕。内部破壊。外傷なし」


咲白が静かに読み上げる。

編集長の視線が、二人の間を行き来する。


「どうして、ここまで具体的に?」


咲白は少し考える。困惑というより、遠くを見る顔。


「それが思い出せないんです」


「思い出せない?」


「これを書かなきゃいけない、そう思ってこの小説を書いたのは覚えてるんです。気づけば、こういった能力者ものを書いていました」


「その構想を考えたのはいつ?」


「私が大学生の時に……」


私は紅茶を口に含むその時

ブシャー!!!

咳き込み、盛大に吹き出す。


「すいません!!」


視線の先。

咲白さんの白い服に、紅茶の飛沫が小さな点を刻んでいる。


「すいません!!すぐハンカチを!!」

編集長がこちらに向ける険しい顔で立ち上がる。


「いえいえ、そんな気になさらないで」

咲白さんは一歳揺るがずに穏やかだ。声が場を静める。


深く頭を下げる。

「本当に申し訳ございません!!大学の時から書いていたというのが衝撃的すぎて」


「そんなことないですよ、執筆は大学生からですが、部屋にあった日記というか記録から着想を得ましてね」


「空想の世界を日記に書いてたんですか?」


「そうですよね、おかしいですよね」


咲白さんは軽く笑う。だけど目は笑っていない。より疑念が深まってしまう。


「では、なぜ“心臓が内部から壊れる”という発想に?」


咲白さんは、わずかに首を傾ける。

「医学的に正しいかどうかは分かりません。ただ、“外側は無傷なのに、中だけが壊れている”というイメージがあったんでしょうね」


作っているのではない。

思いついたのでもない。

――実際に見ている。

そう直感する。

鼓動が一拍だけ、重くなる。


「ちなみに、その時の日記ってまた後日見せてもらうことってできますか?」


沈黙が落ちる。

窓から照らされる光が、咲白の頬を淡く縁取る。

指先がカップの縁をなぞる。かすかな陶器の音。

編集長が息を詰める。


「ええ……構いませんよ」


柔らかい声。

拒絶も躊躇もない。


*  *  *


あれから数日が経った、搬入口のシャッターが上がる音は、どこか鈍かった。

油の切れかけた金属が擦れ合い、低く長い残響を引く。

まだ陽の差しきらない薄青い光が、コンクリートの床を湿った色に染めていた。

白衣に袖を通す。


ストレッチャーが押し込まれる。車輪の小さな振動が床を伝う。

搬送担当の警察官が二人。濃紺の制服の襟元まできっちり留められているが、その視線は固い。


「今回も警視庁案件です」


濱さん宮が、マスク越しに小声で告げる。目だけがこちらを窺う。

黒い搬送袋のジッパーが、ゆっくりと下ろされる。

金属音が一直線に空気を裂く。

視界に入った顔を見た瞬間、私の呼吸が止まった。な、なんで……


――2、3日前に会っていた神谷刑事の遺体。

数日前、この部屋で腕を組み、静かに状況を語っていた男。

ネクタイを緩めながらも、目だけは鋭かったあの刑事。

その同じ顔が、今は無言で横たわっている。

血の気を失った頬。閉じられた瞼。わずかに開いた唇。


濱宮さんも息を呑む。


「……嘘でしょ」


解剖台のステンレスが冷たい光を反射する。

一歩近づく。ゴム底が床を擦る小さな音。


外傷はない。

首元も、こめかみも、指先も。

むしろ穏やかに眠っているようにすら見える。


「死亡確認は?」


搬送担当の警官が、帽子を脇に抱えたまま答える。


「今朝五時過ぎ。路上に倒れているのを通行人が発見しました」


「路上?」


「被害者男性に恨みを持つとされている人物の自宅近くです」


解剖室の温度は一定のはずなのに、空気が一段低く感じる。


「昨夜、その人物の自宅を訪問していました」


ふと視線が上がる。ゴーグル越しに警官を見る。


「一人で?」


「はい。防犯カメラには21時19分に入る姿が映っています」


壁際の時計の秒針が、やけに大きく聞こえる。

「出てくる映像は?」


「その30分後にエントランスから出てきてますね」


濱宮さんが顔を上げる。白衣の襟元がわずかに揺れる。


「では、室内で何か――」


「部屋には誰もいませんでした」


言葉が、静かに落ちる。

金属台に水滴が落ちるように、確実に。


「訪問後、連絡が途絶え、本日神谷刑事の遺体を未明に発見。恨みを持つ人物は依然として所在不明です」


被害者男性死亡。

怨恨の可能性。

失踪した元同僚。

神谷刑事が訪問。

そして死亡。

そして――外傷のない遺体。

偶然という言葉が、音を立てて崩れる。


「その容疑者と思われる人物の名前は?」


空気がぴたりと止まる。


「それは……解剖に関係ないでしょ?」


警官の声は低い。線を引く声音だ。

だが、角谷さんが静かに口を開く。白衣の袖を整えながら。


「関係あるかもしれません」


警察関係者が深くため息をこぼす。

視線が一瞬、遺体に落ちる。


「あくまで、可能性なので、下手なことは考えないように。いいですね?」


約束という名の制限。

それを条件に、ようやく告げられる。


前川結城まえかわゆうき

28歳。子会社勤務。

名前だけが、解剖室に残る。


*  *  *


解剖が終わったあとも、神谷さんの胸骨の内側の光景が、瞼の裏に焼き付いて離れなかった。

メスを入れ、胸骨を開いた瞬間に広がった、あの異様な静けさ。

外側は無傷。皮膚も筋肉も、ほとんど損なわれていない。

内部だけが、圧し潰されている。前回と同じように、内側から握り潰されたかのように。


偶然ではない。連鎖だ。

白衣を脱ぎ、ロッカーに掛けながら、壁の時計を見る。午後四時を少し回っている。


「今日はもう上がれ」


角谷さんが、白衣のポケットに手を入れたまま言う。顔には疲労の影が落ちている。


「これ以上考えても、医学の領域は越えない」


濱宮さんも静かに頷く。マスクを外した唇が、わずかに強張っている。


「警察に任せるべきよ。私たちは死因を出す。それ以上は――」

“越境”。

あの刑事の低い声が、頭の奥で反響する。

――あくまで可能性なので、下手なことは考えないように。



神谷さんは一人で行った。真実に近づこうとしていた。そして死んだ。

ロッカーを閉める音が、やけに重い。


「少し、外の空気を吸ってきます」


 

* * *

 

神谷さんが最後に向かった場所。

内部資料の端に残った町名と番地の断片。

消し切れなかった情報は、十分だった。

理屈ではない。衝動。


夕暮れの街は、群青に沈みかけている。吐く息が白い。

私は黒のコートの襟を立て、マンションを見上げる。築十年ほどの、どこにでもある外観。ベージュの外壁、規則的なバルコニー。

エントランスのガラスに、自分の姿が映る。

白衣はない。ただの女。

戻るなら今だ。

だが、足は動かない。


オートロックの前に立ち、表札を見る。

前川。確かにある。

そのとき。背後で足音。

乾いたアスファルトを踏む、一定のリズム。


振り返る。そこに立っていたのは、ひとりの男だった。

二十代後半。細身。黒のコート。無造作に持ったコンビニ袋。

整った顔立ちだが、どこか影がある。


そんな彼と視線が合ってしまう。


「……どなたですか?」


落ち着いた声。夜の空気のように平坦だ。


名乗るべきではない。

だが、誤魔化す余裕もない。


「あなたが、前川結城さんですか?」


男の手が、わずかに止まる。袋の中でペットボトルが揺れる。数秒。


「そうですが?警察の方ですか?」


「違います。法医学者です」


男の瞳が、ほんの僅かに揺れる。警戒か、理解か。


「……神谷刑事の件で?」


心臓の鼓動が高まる。


「昨日、来ましたよ。刑事さん」


淡々としている。感情の起伏が見えない。


「何を話したんですか」


「元同僚のことです」


「どんな?」


エントランスの自動ドアが、背後で機械的に開閉する。冷たい風が二人の間を通り抜ける。


「……あなた、危ないですよ」


唐突な言葉。


「何が?」


声が震え始めている。


「この件に関わると」


背筋を冷たいものがなぞる。

前川が一歩、近づく。距離が縮まる。

その瞬間、気づく。

コート越しの胸元。わずかな歪み。布の奥に、押された痕のような不自然な凹み。

まるで。内側から、一度押されたような。


「法医学者なら、見ましたよね」


前川が囁く。吐息が白く揺れる。


「外傷がないのに、内部が壊れている遺体」


喉が乾く。


「どうして、それを」


前川は、かすかに笑う。諦めの色を帯びた笑み。


「俺は、逃げているわけじゃない」


さらに一歩。


「順番なんです」


「……順番?」


その言葉が落ちた瞬間。

遠くで、何かが軋むような音。

風ではない。圧力の波のような、耳鳴りに似た震え。

前川の表情が、初めて歪む。


「……来た」


次の瞬間、

見えない衝撃が彼を弾き飛ばす。


「キャ!!」


黒いコートが宙を舞い、コンクリートに叩きつけられる鈍い音。コンビニ袋が裂け、中身が散乱する。


「動くな!!!」


低く、覚悟を帯びた声。

闇の中から現れた黒い人影。

黒のジャケット、無駄のない構え。両手で握られた拳銃の銃口が、前川の頭部にぴたりと向けられている。

前川でさえ、驚いた表情を見せる。だが次の瞬間、相手の顔を認識し、息を呑む。


「篠崎(蓮)さん……」



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