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乞食からはじめる、死に戻り甲賀録  作者: 怒破筋
第二章 天文法華の乱ーー燃えゆく京
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第九十九話 黒き風、伏見を裂く

伏見の丘に建つ冥焔館は、未明の闇を深く飲み込み、鋼のように静まり返っていた。

八月四日、天文法華の乱の火蓋が切られるその朝、館の周囲を吹く風は湿り気を帯び、どこか血の匂いすら含んでいるようだった。


燈籠の鎖が風に鳴り、細い金属音が空の底へ吸い込まれていく。

館の奥では炎がかすかに揺れ、黒漆の壁へ鬼の影を伸ばしていた。

その影は、今宵の京に溢れ始める混乱の形を象っているようでもあった。


円卓には地図、符、そして封を切られた報告書が山のように積まれている。

だが空気は動かず、ただ凍てついた刃のような緊張が漂っていた。


「法華の乱……首尾はどうなっておる」


外道破軍衆の頭領・羅刹牙が静かに声を落とす。

その声音は低いが、かすかな震えを伴うほどの威圧を帯び、館の空気をさらに鋭くした。


「はっ。すべて、策の通りにございます」


陰陽師・芦屋道幻は、迷いのない口調で応じる。

自ら編み上げた策に誤差はない。

京の宗派の対立、寺院の力、僧兵の動き──道幻はすべてを読み、盤面を作った。

その確信が、彼の背筋をまっすぐに保っている。

そのとき──


「伝令!」


書院の扉が鋭い声とともに開いた。

駆け込んだ伝令の衣には土埃がこびりつき、額には汗が光っている。


道幻がその文を受け取り、羅刹牙へと差し出した。

羅刹牙の目が走り──

次の瞬間、表情がわずかに緩む。


「……法華宗二十一の寺のうち、十八が焼き討ちに成功、か」


低く呟き、羅刹牙はふっと息を吐いた。

炎に照らされたその横顔には、久しく見られなかった満足が浮かぶ。


「道玄よ、さすがだ。策はうまくいっておる。これでというものよ」


羅刹牙の口元に浮かぶ微笑を見て、周囲にいた外道破軍衆たちの肩にわずかな安堵が広がった。

夜気の冷たさが和らいだようにすら感じられた。


道幻もまた、目を伏せながらも静かな自負を胸に抱いた。自ら組んだ伏線が、予定通り炎となって京へ広がってゆく──

陰陽師としての才を証明する確かな手応えがあった。

しかし──


「伝令!」


二つ目の声が、わずかに温まった空気を叩き落とした。

次の文を受け取り、羅刹牙へ渡す。

羅刹牙の瞳から、一瞬で光が消えた。


「六角定頼は参戦せず……円城寺は吉岡派と愛洲門派の争いで撤退……

興福寺は宝山寺で行軍停止……」


読み進めるほどに、羅刹牙の顔へ怒色が満ちてゆく。


「これは……どういうことだ、道幻!」


雷鳴のような怒声が室内を裂いた。

羅刹牙が立ち上がっただけで、外道破軍衆たちは思わず膝を折り、身を伏せる。


見えぬ圧が吹き荒れ、燈籠の火さえ揺らぎ震えた。

道幻は眉根を寄せた。

策は緻密であった。見落としはない。

それでも崩れるということが、道幻には理解できぬ。

胸の奥に、初めて小さな不協和が生まれた。


「は……これは我にも……。し、しかし、伝令がもう一報──」


言い終えるより早く、また戸口が叩かれる。


「伝令!」


三つ目の文が差し出された。

羅刹牙は奪うようにして開き、目で追った瞬間、館の空気そのものが凍りついた。


「妙蓮寺の焼き討ち……失敗、だと……?」


低い声が地鳴りのように響く。

次の瞬間、羅刹牙の背から黒い殺気が噴き上がり、棘のように周囲へ迸った。

壁にひびが走り、床板が震える。


「妙蓮寺は重要な寺院ぞ!

現地で何が起きておる!」


怒りが爆ぜ、拳が机を叩いた。

重い欅の机が一瞬震え──

真ん中から裂け、鈍い音を立てて崩れ落ちる。

室内の者たちは息を詰めた。


怒りの中心に立つ羅刹牙は、灯火すら焼き尽くすかのごとき気配を纏っている。

道幻は、静かに膝をついた。

己の責を受け入れたように、腰の剣を抜き、柄を羅刹牙へと差し出す。


「この失態……我が命でつぐないまする。

どうか、我が首をお討ちくだされ……」


声には、揺らぎよりも覚悟があった。

朝廷復帰を目指す彼にとって、失敗は魂を削る罪である。

だが羅刹牙は剣を払うように叫んだ。


「道幻よ!

お前の首を討って何になる!

妙蓮寺の失態は覆らぬ!

しかも妙蓮寺に派遣した兵は本能寺も焼く部隊であろう!」


怒声が天井を震わせる。


「道幻、自ら行け!

法華宗の最重要拠点の本能寺だけは絶対に灰にせよ!

己が命をもって成し遂げてこい!」


魂を抉るような命令が下された。


「はっ……承知つかまつる!」


道幻は剣を収め、深く頭を垂れた。

胸の内では、悔恨と怒りが渦を巻いている。

完璧に整えた策が次々と崩される──

その背後に何か見えぬ力が働いていることなど、まだ知らない。

だが、陰陽師としての名誉を守るため、退くことはできぬ。


「精鋭を五名連れ、すぐに本能寺へ向かいまする」


道幻が立ち上がったとき、その眼には先ほどの失敗を呑み込むほどの凄烈な意志が宿っていた。

冥焔館を出た瞬間、八月の湿った風が彼らを包み込む。


京の空には薄雲が流れ、月が浮かんだり隠れたりしている。遠くでは、法華宗の寺々から上がる黒煙が夜空に線を描いていた。


風は土埃と火薬の匂いを運び、これから京の町を覆う混乱を静かに告げている。

道幻の横顔に月がひと筋の光を落とした。

その若い顔立ちに、老練の影が深く刻まれる。


──失態は必ず返す。

──本能寺は、必ず炎で清めてみせる。


その決意が、道幻の歩みを速くし、五人の影が彼に続いた。彼らの足音は風に消え、冥焔館だけが暗闇に置き去りとなる。


伏見の丘を越える風は冷たく、

まるでこの夜が血と炎に満ちることを知っているかのようであった。

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