第九十八話 火影ゆらぐ妙蓮寺の夜ー鬼剋指圧の威力
「ななななな! なんじゃとおおおお!」
治療のため雷丸と霞を本拠へ戻した後、梵寸は単身で妙蓮寺へと向かった。城塞化された寺であれば、まだ戦っているはずと予想していた。
――そう踏んでの行動だった。
だが、そこにあったのは破壊された寺門と、敗北の気配だった。
妙蓮寺は、すでに延暦寺に落とされていた。境内に人影はなく、延暦寺の僧兵も見当たらない。すでに次の寺院へ移ったのだろう。
「籠城すれば落ちるはずがない……なぜじゃ! 経心! 経心はどこじゃ!」
怒りと疑念を胸に渦巻かせながら歩く梵寸の脇を、袋を抱えた商人が足早に通り過ぎていった。
「そこの商人風のお方、尋ねたい。なぜ妙蓮寺は落ちたのじゃ」
声をかけられ、商人はぎょっと身をすくめたが、相手が子供だと分かると、わずかに肩の力を抜いた。
「妙蓮寺はな……落ちたんだよ。門を閉じて籠城し、最初は優勢だった。 だが、比叡山が焼き討ちに遭ったと聞いてな。延暦寺の僧兵三千が山へ戻った。 それを“好機”と見た住職の朗源が、各寺院に連絡し、同時に寺門を開けて討って出ろ、と指示したんだ」
「他の寺院はどうなった?」
梵寸の声は、氷のように冷え切っていた。
「駄目だな。二十一の寺院は、どこも落ちただろう。法華宗は惨敗だ。 ここらは危ない。お前さんも早く逃げた方がいい」
商人はそう言い残し、堺の方角へ急ぎ足で去っていった。
梵寸は、月明かりの下で立ち尽くした。 胸の奥では、怒りとも虚無ともつかぬ濁った渦が、火よりも熱く、氷のように重く沈殿している。
「なぜじゃ……なぜなのじゃ……!何を考えておる、あやつらは……。わしの半年の苦労が――この乱で、煙と消えるというのかっ!」
声は闇に吸い込まれ、夜空へ散った。 人の消えた妙蓮寺の前では、梵寸自身の存在すら、灰のように軽く思えた。
その時だった。
静まり返ったはずの妙蓮寺へ、黒装束の影が数名、音もなく滑り込んでいく。
「……おや? 何者じゃ、あやつらは」
足を止めた瞬間、胸の奥がざわついた。
延暦寺が打ち破った後の無人の寺に、わざわざ忍び込む理由などひとつしかない。
――火付け
「怪しいの……いや、まずいのじゃ。動かねばならぬ」
息を呑み、梵寸は黒影の後を追って駆け出した。
薄闇に吸い込まれる妙蓮寺。その奥で、取り返しのつかぬ事態が起ころうとしている。
――そんな予感が、肌を刺した。直感が、確かめろと叫んでいた。
土を踏みしだき、八つの黒影が妙蓮寺の庭へ無言で散る。
ひとりが火打ちを鳴らした。ぱちり、と橙の火花が闇を裂き、乾いた柴に燃え移る。 小さな炎が唸り、黒装束の面を照らし出した。 指揮官らしき男が松明を受け取り、ためらいなく部下へ配っていく。
「……間違いない。火つけじゃな」
梵寸は木陰に身を沈め、奥歯をきしませた。
延暦寺の攻めで多くが倒れた後の妙蓮寺を、さらに焦土にする意味などどこにもない。
――それでも誰かが、京を乱そうとしている。この火を放てば、都は再び混乱の渦に沈む。
梵寸は短く息を吐いた。
「ここで止めるしかあるまい」
十二歳の小柄な身体が、闇から一歩踏み出す。
「おぬしたち、寺院に火をつけようとするは――仏罰が下るぞ!」
黒影たちが一斉に振り返った。 松明の橙が梵寸の顔を照らす。 幼い面差しに、年齢に似つかわしくない冷気が宿っていた。
「何者だ、貴様!……子供だが見られた以上、殺せ!」
数本の刀が抜かれ、刃が夜光を弾く。
次の瞬間だった。ぱしん――。乾いた音が夜気を震わせる。
梵寸の掌が閃き、ひとりが魂を抜かれたように崩れ落ちた。
「な、なにっ!?」「化け物か!?」
狼狽する暇もなく二撃、三撃。一見ただの平手打ち。しかし受けた者は皆、糸の切れた人形のように倒れ伏す。
幼い体から放たれる理不尽な威力に、黒影たちは恐怖で目を見開くしかなかった。
最後に残った指揮官が、渾身の気迫を込めて叫ぶ。
「斬り伏せる!」
鋭い踏み込み。浪人として鍛えた重みが、その一撃に乗る。だが――梵寸の手が、ひらりと風を払っただけに見えた。ぱしん。短い音の後、指揮官は言葉を失い、そのまま地面へ沈んだ。
闇を取り戻した妙蓮寺の庭を、夜風が静かに撫でた。
◇◇◇
梵寸は倒れた八人を手際よく縄で縛り、桶の水をざばりと浴びせた。 冷水が石畳に散り、夜の匂いを濃くする。
「……う、ぐ……はっ……!」
最初に目を覚ましたのは指揮官だった。 むせ返りながら、自分が少年の前に座らされていると悟り、即座に警戒を強める。
「さて、ひとつ聞いておこうかの」
声音は静かだが、底に冷たい刃が潜む。
「……誰の差し金じゃ?」
浪人は唇を固く結び、視線を逸らさなかった。 敵意と覚悟が、眼に宿る。
「ほう。そうくるか」
梵寸は口角をわずかに吊り上げた。十二歳とは思えぬ、老練な嘲りだった。
「今からおぬしに、忍流の拷問技をかける。ただし――ひとつ覚えておけ。“吐け”とは言わぬ。 伝えたいことがあるなら、聞いてやらんでもない」
薄笑いを浮かべた梵寸を見て、指揮官の顔が一気に蒼白になる。本能で理解したのだ。この子供は“手練”などという言葉では済まされぬ存在だと。
「まずは……鬼剋指圧じゃ」
人差し指が、そっと急所へ触れ――押し込まれた。
「ぐ……あ……ああああああああああ!!」
血は流れない。ただ神経だけが燃え上がるような激痛が全身を駆け巡る。甲賀忍が極めた、傷を残さぬ痛みの秘技だった。
他の黒影たちも、見ているだけで震えだす。
梵寸は淡々と、次の急所へ指を移した。
「さて——次じゃ」
「こ……これは……! うぎゃああああああ!!」
指揮官は額を地に擦りつけ、くの字に折れ曲がってのたうつ。
「ほっほっ……痛いじゃろう」
愉快げな笑み。しかしそのあどけない顔との落差が、異様な迫力を生んでいた。
「長年の研究の成果じゃ。短刀で刺すより、はるかに痛いと分かっての」
「ま、待て……! 待ってくれ……!」
ついに意地も誇りも崩れ落ちる。
「ほう。聞いてほしいことがあるのか? なら聞いてやろう」
「……我らは……三好に雇われた破軍衆だ……妙蓮寺に火をつけたら……士官させると…… その後、本能寺を焼けと……」
梵寸の目が細くなる。
「なんと……本能寺を……!」
法華宗の魂の故郷。それを焼くなど、断じて許されぬ。
「絶対に防がねばならぬ。来年に起こる悲劇を、繰り返させてはならぬ……おのれ三好め」
三好家の裏切りは予想していた。だが、実際に聞かされると腹の底が冷え切る。
「やはり混乱に乗じて、京そのものを奪うつもりか」
指揮官は悔しげにうなずいた。
梵寸は立ち上がる。
「では――歯を食い縛れい」
八人を一列に並べ、人差し指を掲げる。
「甲賀忍法・夢隠——」
額に触れた瞬間、神気が吸い込まれるように広がる。
「うぎゃあああああああああ!」
ぱた、ぱた、と倒れる音だけが夜に落ちた。
「どうも甲賀で鍛えすぎたか……痛みを伴う術ばかりじゃのう」
夢隠。傷を残さず、必要な記憶だけを奪い、深い失神へ導く秘術。外道破軍衆は数日の記憶を失い、何も知らぬまま眠りについた。
◇◇◇
「……妙蓮寺の焼失は防げた。だが、本能寺を狙うなら必ず別働隊がいる」
梵寸は夜気の中で息を整え、月に照らされた屋根を見上げた。
「法華宗の聖地さえ守れれば——未来は変えられる。不動明王の命に懸けて、民を守ってみせよう」
七十九年分の記憶が、十二歳の身体に満ちる。 それでも。
「経心は……堺へ落ち延びたはずじゃ。あやつは、そう簡単に死なん」
古き同志を思い、空を睨み上げる。
「行くぞ……まだ炎に呑まれておらぬ“運命の地点”へ」
未来の甲賀衆惣領・梵寸は、本能寺へ向けて歩き出した。その背に、夜の京が静かに揺れていた。




