表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
乞食からはじめる、死に戻り甲賀録  作者: 怒破筋
第二章 天文法華の乱ーー燃えゆく京
97/104

第九十七話 月影に吠える法華の拳骨

八月四日、未明。

妙蓮寺の境内には、ざわめきが火花のように走っていた。湿った夜風が杉の梢を揺らし、土埃と青い苔の匂いが混じって夜気に溶ける。空は白む前の深い藍色に沈み、僧兵たちの荒い息遣いだけが、やけに濃く耳に残っていた。


「朗源が寺門を開け、正午に突撃するぞ!

皆のもの、覚悟を定めよ! 延暦寺と決戦じゃ!」


声が上がると同時に、

「おうっ!」

と怒号が応え、岩肌に反響するように妙蓮寺内部の士気が一気に燃え上がった。灯籠の炎さえ揺らぐほどの熱気が、境内を満たしていく。


だが、その渦中にあって、若い経心だけは胸に小さな迷いを抱えていた。


「……籠城すれば、勝機もあったはず……。なぜ、突撃を……」


思わず零れた呟きに、妙蓮寺住職・日弘が静かな視線を向ける。


「朗源殿は、すでに覚悟を固められた」

落ち着いた声だった。


「我らもまた、それに背くわけにはゆかぬ。結束こそが肝要よ、経心」

「……はい」

経心は小さく頷いた。


しかし胸の奥に残るざわつきは、風に舞う塵のように、容易には消えなかった。


それは死への恐怖ではない。

自分の刃が、誰かの命を奪うかもしれぬという重さ


――その現実に、幼い魂がかすかに震えていた。

だが、その葛藤すら呑み込むように、歴史は容赦なく動き出す。


◇◇◇


正午。

寺門の前には三百五十の僧兵が二列に並び、鉄の匂いが空気を満たしていた。雲間から差し込む日差しが、槍や薙刀の刃に反射し、白く瞬く。


「寺門を開けよ!」

日弘の号令と同時に、巨門が軋む音を立てて開いた。

吹き抜ける風のように僧兵たちが一斉に駆け出す。地面が揺れ、砂が跳ねた。


経心はまだ元服したばかりである。日弘はその肩を押さえ、低く言い含めた。


「拙僧の傍を離れるな。前へ出るでないぞ」

「はい」

応えはしたものの、経心の掌は汗で濡れていた。


――梵寸に鍛えられた腕であっても、この戦場の空気はあまりに重い。


◇◇◇


ふと、経心の脳裏を過ったのは、師・梵寸と共に駆け抜けた山道の朝であった。


「経心、遅い。足が死んでいては、薙刀も死ぬ」


涼しい顔でそう言い放ちながら、梵寸は短刀を逆手に構え、軽々と走り続けていた。


何度転げそうになったか、分からない。

何度「もう無理だ」と思ったかも、覚えていない。

それでも――。

走り終え、汗だくで息を切らす経心の前に、小さな影がそっと近づいた。


「……よく頑張ったね、経心くん」


梵寸の妹・華が、湯気の立つ水筒を両手にのせて差し出していた。

淡く微笑むその顔は、過酷な鍛錬の中で、唯一、胸を温める光だった。


「華……ありがとう……」

「ううん。また頑張ろうね。にいにも、ほら……ちょっと笑ってるし」

「笑ってなどおらぬ」


そう言いながらも、梵寸の口元は、確かにわずかに緩んでいた。


あの日々は、確かに自分を支えていた。

――だから、負けられない。

――生きて帰り、また笑い合いたい。


◇◇◇


鉄と鉄がぶつかり合う、澄んだ破裂音。

それが初めて戦場に立つ経心の胸を、鋭く貫いた。

最前線が衝突する。火花が散り、泥が跳ね、僧たちの怒号が入り混じる。


「……ついに、始まったか」

経心の瞳に恐れはなかった。


そこに灯っていたのは、静かな覚悟だけである。

やがて戦が膠着すると、妙蓮寺を囲んでいた延暦寺の僧兵が、横合いから次々と押し寄せてきた。薙刀の刃が迫り、足元では靴音と叫びが混ざり合う。


「あそこだ! 妙蓮寺住職・日弘がいるぞ!」


延暦寺側の叫びが飛んだ瞬間、空気が一変した。

敵の視線が一点に集まり、怒濤のように僧兵が押し寄せる。


「迎え撃て!」

日弘が怒声を放つ。周囲の僧兵が身構える――が、それよりも早く、ひとつの影が飛び出した。

経心である。


「これ、経心! 戻りなさい!」

日弘の叫びは届かない。


経心は、不殺のために刃を潰した薙刀を握りしめ、泥を蹴った。鉄の塊のように重い武器。それでも迷いなく振るう。


「小僧の出る幕ではない! 退け!」

延暦寺の僧兵が薙刀を振り下ろす。


「南無妙法蓮華経!」

一歩踏み込み、ただ一振り。

雷鳴のような衝撃が走った。

三人の僧兵が、まとめて宙を舞い、地へ叩きつけられる。


「な……何者だ……あの小僧!」

驚愕の声が、敵味方を問わず広がった。

日弘も思わず目を見開く。


「経心……これほどの力を……?」

当然であった。

梵寸の常軌を逸した鍛錬が、経心の速度と力を、すでに常人の域から引き剥がしていたのだ。


「討て! あの小僧を討て!」

延暦寺の僧兵が数人がかりで襲いかかる。


だが、そのすべてが経心の薙刀に叩き伏せられた。

砂煙が上がり、敵の身体が転がる。


「法華の拳骨じゃ……!」

「……あれこそ、法華の拳骨よ!」


妙蓮寺の僧たちが叫ぶ。

迫害を受けながら拳を武器として生き延びてきた法華講衆――その象徴の名であった。


「南無妙法蓮華経!」


経心の一喝が空を震わせ、延暦寺の僧兵が次々に吹き飛ぶ。


「法華の拳骨!」

「法華の拳骨!」


声が波のように高まっていく。

その姿は、もはや幼さを残す僧ではない。戦場に立つ英雄そのものであった。


◇◇◇


そのとき――。


「法華の拳骨、だと?」


延暦寺の列の奥から、黒糸の腹巻を纏い、星兜を被った武者が、一歩、また一歩と進み出た。


背には二引の指物。

ただ立つだけで、周囲の空気が沈む。

経心は薙刀を握り直す。


「南無妙法蓮華経!」


迷いなく踏み込む。

潰れ刃の薙刀が、黒い武者へと振り下ろされ――

その瞬間、武者は片手でそれを受け止めた。


経心の目が見開かれる。

圧倒的な力。山に刃を叩きつけたかのような手応え。

黒い腹巻武者は、薙刀を片手で止めたまま、指先に力すら込めていなかった。まるで経心の一撃が、乾いた枝ほどの重さしかないかのように。


「その程度か。法華の拳骨とやらの名が泣くぞ」

低い声。


嘲りではなく、淡々と事実を告げる口調だった。

経心は歯を食いしばる。


――この武者は、別格だ。


腹巻が光を吸い、武者の輪郭だけが夜気の中で浮かび上がる。風が一筋吹き抜け、経心の頬を冷たく撫でた。

黒い武者は、ゆっくりと経心を押し返す。


「精神の鍛錬を怠ったな。力ばかり磨いても、心が伴わねば武は形骸」

淡々とした声音が続く。


「悔いる間も与えぬ」

そこに、容赦は一滴もなかった。


「退がれ! 経心! 下がるのじゃ!」

日弘の叫びが響く。

だが経心の足は、泥を踏みしめたまま動かない。


――ここを退けば、皆が討たれる。

――だから、動くしかない。


幼さを残す胸に燃えたのは、恐怖ではなく、ただ一つの願い。


「南無――!」

息を吸った、その瞬間。

黒い腹巻武者の表情が、風に揺れる影のように、わずかに変わった。


「……遅い」

囁きは静かだった。


次の瞬間、武者の足元が砂を裂き、その身が霞むように消える。

あまりの速さに、周囲の僧兵が気づいたときには、すでに経心の真正面にいた。

武者の左手が、柄に触れる。


「……第一ノ型——」


空気が震えた。

戦場のすべての音が、一拍だけ凍りついたかのようだった。

経心の瞳に、星兜の面頬が迫る。


霞月一閃かすみづきいっせん


薄闇を裂き、白い線が走る。

斬撃ではない。踏み込みでもない。

ただ一閃――月光のように、滑らかな軌跡だけを残す技。


「経心いいいいい!!」

日弘の絶叫が、沈鐘の音のように戦場へと響き渡った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ