第九十七話 月影に吠える法華の拳骨
八月四日、未明。
妙蓮寺の境内には、ざわめきが火花のように走っていた。湿った夜風が杉の梢を揺らし、土埃と青い苔の匂いが混じって夜気に溶ける。空は白む前の深い藍色に沈み、僧兵たちの荒い息遣いだけが、やけに濃く耳に残っていた。
「朗源が寺門を開け、正午に突撃するぞ!
皆のもの、覚悟を定めよ! 延暦寺と決戦じゃ!」
声が上がると同時に、
「おうっ!」
と怒号が応え、岩肌に反響するように妙蓮寺内部の士気が一気に燃え上がった。灯籠の炎さえ揺らぐほどの熱気が、境内を満たしていく。
だが、その渦中にあって、若い経心だけは胸に小さな迷いを抱えていた。
「……籠城すれば、勝機もあったはず……。なぜ、突撃を……」
思わず零れた呟きに、妙蓮寺住職・日弘が静かな視線を向ける。
「朗源殿は、すでに覚悟を固められた」
落ち着いた声だった。
「我らもまた、それに背くわけにはゆかぬ。結束こそが肝要よ、経心」
「……はい」
経心は小さく頷いた。
しかし胸の奥に残るざわつきは、風に舞う塵のように、容易には消えなかった。
それは死への恐怖ではない。
自分の刃が、誰かの命を奪うかもしれぬという重さ
――その現実に、幼い魂がかすかに震えていた。
だが、その葛藤すら呑み込むように、歴史は容赦なく動き出す。
◇◇◇
正午。
寺門の前には三百五十の僧兵が二列に並び、鉄の匂いが空気を満たしていた。雲間から差し込む日差しが、槍や薙刀の刃に反射し、白く瞬く。
「寺門を開けよ!」
日弘の号令と同時に、巨門が軋む音を立てて開いた。
吹き抜ける風のように僧兵たちが一斉に駆け出す。地面が揺れ、砂が跳ねた。
経心はまだ元服したばかりである。日弘はその肩を押さえ、低く言い含めた。
「拙僧の傍を離れるな。前へ出るでないぞ」
「はい」
応えはしたものの、経心の掌は汗で濡れていた。
――梵寸に鍛えられた腕であっても、この戦場の空気はあまりに重い。
◇◇◇
ふと、経心の脳裏を過ったのは、師・梵寸と共に駆け抜けた山道の朝であった。
「経心、遅い。足が死んでいては、薙刀も死ぬ」
涼しい顔でそう言い放ちながら、梵寸は短刀を逆手に構え、軽々と走り続けていた。
何度転げそうになったか、分からない。
何度「もう無理だ」と思ったかも、覚えていない。
それでも――。
走り終え、汗だくで息を切らす経心の前に、小さな影がそっと近づいた。
「……よく頑張ったね、経心くん」
梵寸の妹・華が、湯気の立つ水筒を両手にのせて差し出していた。
淡く微笑むその顔は、過酷な鍛錬の中で、唯一、胸を温める光だった。
「華……ありがとう……」
「ううん。また頑張ろうね。にいにも、ほら……ちょっと笑ってるし」
「笑ってなどおらぬ」
そう言いながらも、梵寸の口元は、確かにわずかに緩んでいた。
あの日々は、確かに自分を支えていた。
――だから、負けられない。
――生きて帰り、また笑い合いたい。
◇◇◇
鉄と鉄がぶつかり合う、澄んだ破裂音。
それが初めて戦場に立つ経心の胸を、鋭く貫いた。
最前線が衝突する。火花が散り、泥が跳ね、僧たちの怒号が入り混じる。
「……ついに、始まったか」
経心の瞳に恐れはなかった。
そこに灯っていたのは、静かな覚悟だけである。
やがて戦が膠着すると、妙蓮寺を囲んでいた延暦寺の僧兵が、横合いから次々と押し寄せてきた。薙刀の刃が迫り、足元では靴音と叫びが混ざり合う。
「あそこだ! 妙蓮寺住職・日弘がいるぞ!」
延暦寺側の叫びが飛んだ瞬間、空気が一変した。
敵の視線が一点に集まり、怒濤のように僧兵が押し寄せる。
「迎え撃て!」
日弘が怒声を放つ。周囲の僧兵が身構える――が、それよりも早く、ひとつの影が飛び出した。
経心である。
「これ、経心! 戻りなさい!」
日弘の叫びは届かない。
経心は、不殺のために刃を潰した薙刀を握りしめ、泥を蹴った。鉄の塊のように重い武器。それでも迷いなく振るう。
「小僧の出る幕ではない! 退け!」
延暦寺の僧兵が薙刀を振り下ろす。
「南無妙法蓮華経!」
一歩踏み込み、ただ一振り。
雷鳴のような衝撃が走った。
三人の僧兵が、まとめて宙を舞い、地へ叩きつけられる。
「な……何者だ……あの小僧!」
驚愕の声が、敵味方を問わず広がった。
日弘も思わず目を見開く。
「経心……これほどの力を……?」
当然であった。
梵寸の常軌を逸した鍛錬が、経心の速度と力を、すでに常人の域から引き剥がしていたのだ。
「討て! あの小僧を討て!」
延暦寺の僧兵が数人がかりで襲いかかる。
だが、そのすべてが経心の薙刀に叩き伏せられた。
砂煙が上がり、敵の身体が転がる。
「法華の拳骨じゃ……!」
「……あれこそ、法華の拳骨よ!」
妙蓮寺の僧たちが叫ぶ。
迫害を受けながら拳を武器として生き延びてきた法華講衆――その象徴の名であった。
「南無妙法蓮華経!」
経心の一喝が空を震わせ、延暦寺の僧兵が次々に吹き飛ぶ。
「法華の拳骨!」
「法華の拳骨!」
声が波のように高まっていく。
その姿は、もはや幼さを残す僧ではない。戦場に立つ英雄そのものであった。
◇◇◇
そのとき――。
「法華の拳骨、だと?」
延暦寺の列の奥から、黒糸の腹巻を纏い、星兜を被った武者が、一歩、また一歩と進み出た。
背には二引の指物。
ただ立つだけで、周囲の空気が沈む。
経心は薙刀を握り直す。
「南無妙法蓮華経!」
迷いなく踏み込む。
潰れ刃の薙刀が、黒い武者へと振り下ろされ――
その瞬間、武者は片手でそれを受け止めた。
経心の目が見開かれる。
圧倒的な力。山に刃を叩きつけたかのような手応え。
黒い腹巻武者は、薙刀を片手で止めたまま、指先に力すら込めていなかった。まるで経心の一撃が、乾いた枝ほどの重さしかないかのように。
「その程度か。法華の拳骨とやらの名が泣くぞ」
低い声。
嘲りではなく、淡々と事実を告げる口調だった。
経心は歯を食いしばる。
――この武者は、別格だ。
腹巻が光を吸い、武者の輪郭だけが夜気の中で浮かび上がる。風が一筋吹き抜け、経心の頬を冷たく撫でた。
黒い武者は、ゆっくりと経心を押し返す。
「精神の鍛錬を怠ったな。力ばかり磨いても、心が伴わねば武は形骸」
淡々とした声音が続く。
「悔いる間も与えぬ」
そこに、容赦は一滴もなかった。
「退がれ! 経心! 下がるのじゃ!」
日弘の叫びが響く。
だが経心の足は、泥を踏みしめたまま動かない。
――ここを退けば、皆が討たれる。
――だから、動くしかない。
幼さを残す胸に燃えたのは、恐怖ではなく、ただ一つの願い。
「南無――!」
息を吸った、その瞬間。
黒い腹巻武者の表情が、風に揺れる影のように、わずかに変わった。
「……遅い」
囁きは静かだった。
次の瞬間、武者の足元が砂を裂き、その身が霞むように消える。
あまりの速さに、周囲の僧兵が気づいたときには、すでに経心の真正面にいた。
武者の左手が、柄に触れる。
「……第一ノ型——」
空気が震えた。
戦場のすべての音が、一拍だけ凍りついたかのようだった。
経心の瞳に、星兜の面頬が迫る。
「霞月一閃」
薄闇を裂き、白い線が走る。
斬撃ではない。踏み込みでもない。
ただ一閃――月光のように、滑らかな軌跡だけを残す技。
「経心いいいいい!!」
日弘の絶叫が、沈鐘の音のように戦場へと響き渡った。




