第九十六話 天文法華ノ乱記 ―火走る京の夜―
天文五年八月四日未明。
京の空はなお薄闇に沈み、夜明けには程遠かった。風が青蓮院の庭を吹き抜け、湿った土の匂いが静かに鼻を刺す。松の葉がさわりと擦れ合い、その音は、まだ燃え上がらぬ炎のように、これから訪れる戦を予感させていた。
延暦寺の天台座主・良淳は、本来であれば九千の僧兵を率い、法華宗本圀寺を総攻撃しているはずの身であった。だが彼は、青蓮院の奥、薄闇の間に座し、地図を前にして指揮を執っていた。燭台の炎が揺れ、その光に引き延ばされた影が、畳の上をじりじりと這う。
「なぜ、六角定頼は来ぬのじゃ……!」
良淳の声が、低く唸るように響いた。
「円城寺はどうした。興福寺は援軍を送ったと、確かに連絡があったであろう!」
怒りを抑えきれず、良淳は台を拳で叩いた。乾いた木の音が室内に響き、控えていた高僧や僧兵たちが一斉に身を強張らせた。
「近江勢の援軍、千が到着しております」
控えの僧兵が、恐る恐る報告する。
「たかが千で何が変わる!」
良淳は吐き捨てるように叫んだ。
「本圀寺には二千の兵が籠っておるのだぞ!」
地図を叩く指先が、わずかに震えている。戦況が狂い始めていることを、良淳自身が誰よりも強く感じ取っていた。
そのとき――。
「伝令!」
襖が勢いよく開き、息を切らした僧侶が駆け込んできた。一通の書状を差し出す手が、僅かに震えている。
「今度は何じゃ!」
良淳は苛立ちを隠そうともせず、荒々しく封を切った。文を追った瞬間、顔が紅潮し、全身がわなわなと震え出す。
「座主どの……何が……?」
周囲の高僧が不安げに問いかける。
「……比叡山が燃えておる……だと」
その一言に、場が凍りついた。
「な、なんと……!」
「法華宗の別動隊か!」
「比叡山が落ちれば、我らの帰る場所がなくなりますぞ、座主どの!」
声が錯綜し、室内は一気に混乱へと傾いた。誰もが狼狽し、足元を掬われたかのような表情を浮かべている。
だが、その中でただ一人――良淳だけが、静かに立ち上がった。
その眼には、抑えきれぬ怒りが深く沈殿している。
「後詰の三千を比叡山へ送れ」
低く、しかし断固とした声だった。
「我らの聖地を、命をかけて守るのだ。指揮は宵然に任せよ!」
「承知!」
伝令は即座に踵を返し、外へと走り出た。やがて馬の蹄の音が遠ざかり、宵然のいる本圀寺へ向かったことを告げる。
残された良淳は、燭台の炎をじっと見つめた。
揺れる光の奥に、消えぬ後悔が滲む。
なぜ、城塞化を見抜けなんだ……。
胸を灼く思いは強く、しかしそれを声に出すことはなかった。
「これでは法華宗を京から追放することなどできぬ」
良淳は一度、深く息を吸い込む。
「だが、我らの信仰心があれば、できぬことなどない!」
その声は高らかに陣営へ響き渡り、揺らぎかけた空気を無理やりに貫く力を帯びていた。
それから幾刻かが過ぎた。
だが――法華宗二十一寺院のうち、ひとつとして落ちたという報告は、未だ届かなかった。
◇◇◇
同じ頃。
法華宗本圀寺では、まるで異なる空気が流れていた。
朗源は本堂の奥で、わずかに口元を緩めていた。
「想定より僧兵が少ない」
静かな声だった。
「しかも比叡山で出火し、本圀寺を囲む兵が三千、そちらへ向かったとか……」
朗源はゆっくりと息を吐く。
「さすがよのう、勘助。あのお方から遣わされた者だけはある」
その声には、確信と落ち着きが滲んでいた。
「はっ。では一つ、妙案がございます」
勘助は一礼し、法華宗二十一寺院の配置図を広げた。紙の端が、堂内を抜ける微かな風に揺れる。そこには延暦寺側の兵力も、克明に書き込まれていた。
「報告によれば、我ら本圀寺の兵力は二千。対する延暦寺は、興福寺が動いたものの、軍勢は宝山寺で足止めされております」
勘助は淡々と読み上げながら、無意識に頬の傷跡を指でなぞった。
幾度も戦場に立ってきた者だけが持つ、癖だった。
「円城寺軍も撤退した模様。また、頼みの綱である六角軍は、本願寺に急襲されるのを警戒し、観音寺城周辺で睨み合いに入っております」
「つまり……どうなるのじゃ?」
朗源は結論を急ぐように問いかけた。台に置いた掌が、微かに震えている。
「法華宗に、勝算はあるのか?」
「戦力差は、もはや消滅しております」
勘助は即答した。
「さらに我らの寺院は城塞化されておりますゆえ、落ちる心配はほぼございませぬ。そして敵は援軍が来ぬと悟り、動揺しております」
一拍置き、勘助は口角をわずかに上げた。
「ここは――敵が思いも寄らぬ、短期決戦が良策と見ます」
燭台の炎に照らされたその顔は静かだが、どこか獣が牙を隠しているような鋭さを宿していた。
「ど、どう仕掛けるのじゃ!」
朗源は前のめりになり、叫ぶ。
「はっきり申せ!」
「――各寺院の門を、時を同じくして開きましょう」
勘助は地図を指でなぞり、要点を示す。
「そして長蛇の陣で延暦寺の包囲を突き破り、天台座主・良淳の首を挙げます。敵は寺院を囲んでおりますゆえ、数は多くとも陣の厚みは薄い。その中央に――指揮官がおります」
勘助は、地図上の一点を強く叩いた。
「朗源殿。御決断を」
堂内にいるすべての僧が、朗源を見つめた。
寺の奥で風が鳴り、松葉がざわりと揺れる。
朗源は深く息を吸い込み――そして、叫んだ。
「――門を開け、突撃せよ!」
本圀寺の空気が、震えた。
夜の京の底で、戦の火が、いよいよ走り始める。
僧たちが一斉に動き出す中、勘助は一歩退き、薄闇に沈んだ庭を見やった。
その目は笑っていない。だが、光の奥には、冷たい影が潜んでいた。
(朗源は、信仰心が高く、まっすぐな男じゃ……引っかかりおったわ)
良淳は青蓮院の奥、薄闇の間で指揮を執っておる……。
その独白は声にならず、ただ胸の内で歪む。
(うはは……)
闇は勘助の表情を覆い隠し、誰一人として、その本心に気づく者はいなかった。




