第九十五話 火走る夜、雷の声
風が吹いていた。
比叡山の谷を抜ける夜風は、焦げた木々の匂いと土埃を巻き込み、荒れ果てた地表を低く唸らせながら走っていた。時は天文五年十月。だが、山肌に残る惨状は、二月に始まった天文法華の乱、その激しさを今なお雄弁に物語っている。闇の底に点々と揺れる火は、完全には消えきらぬ戦の名残であり、近づけば死があると、否応なく肌に沁み込ませてきた。
その荒野の中央で、雷丸は膝をついていた。
両肩は大きく上下し、白い息に混じって血と汗の匂いが夜気へ溶けていく。片方の短刀は根元から砕け、落ち葉の上に無残に転がっていた。残る一本を握る手にも、もはや余力はない。足腰は微かに震え、呼吸は荒く乱れ、限界がすぐそこまで迫っていた。
そこへ、澄んだ声が夜を裂いた。
「雷丸よ! まだ折れておらぬはずじゃろ」
声の主は、梵寸であった。
「お主は山で千度倒れても、その度に立ち上がった男じゃ。心の刃だけは、いまだ欠けておらん!」
十二歳の童の声でありながら、その響きは異様なほど深い。
七十九年を生き抜いた忍びの惣領、その記憶と胆力が滲み出た声は、夜風すら一瞬、身を竦めさせた。
雷丸の瞳に、再び焔が宿る。
「……負けるものか!」
雷丸は砕けた短刀を地に捨て、残る一本を正眼に構えた。息は整わず、腕は鉛のように重い。それでも、前へ出ようとする気迫だけは衰えていない。その姿は、修験の山を踏破してきた男の意地そのものだった。
対する華王房は、薙刀を上段に掲げ、鼻で嗤った。
「倒れておれば良いものを。死の苦しみが増すだけよ」
延暦寺の僧として、また僧兵として幾多の修羅場を潜り抜けてきた男だ。雷丸の足運びの乱れ、呼吸の浅さを見逃さぬ。確実に仕留められる――そう判断し、足を割り、腰を落とした。
月光が刃に走る。
白い光が一閃し、華王房の薙刀が雷丸の頭上へ叩き落とされた。
――だが。
「うおおおおおおおお!
拙僧は誇りをかけ、卑怯な輩には負けん!!」
雷丸は雄叫びとともに踏み込んだ。
死を恐れぬ修験者の、常ならざる勇気が、その一歩を押し出していた。薙刀は空を裂き、刃の側面が雷丸の額を打つ。鈍い衝撃。次の瞬間、血が勢いよく噴き出した。
「な、なんと……!」
華王房は思わず声を漏らす。
雷丸の愚直とも言える突進は、歴戦の僧兵にとっても想定外だった。
雷丸の声が、夜風に溶ける。
「無音忍法第一ノ型――
朧斬りいいいい!!」
影が裂けた。
神気を帯びた刃が、音もなく闇を滑り、連なって華王房へ流れ込む。連撃を受けた華王房は、耐えきれず悲鳴を上げた。
「ぐわあああああっ!」
身体を押さえ、その場に崩れ落ちる。命こそ奪われなかったが、肉体には深い傷が刻み込まれていた。
雷丸は血を滴らせながら、なお立っていた。
肩で荒く息をしながらも、その姿は揺るがない。
「はぁ……はぁ……
継尊様……拙僧は……やりましたぞ……」
その言葉を受け、梵寸は静かに頷いた。
「ようやったの、雷丸よ。これで真境中位に到達じゃ。己より上位の者を、実戦で討ち倒した証よ。今の一撃で、お主の神気は真境中位へと跳ね上がったわ」
滅多に褒め言葉を口にしない梵寸の評価に、雷丸は一瞬、呆けたような顔を見せたが、すぐに安堵と誇りが入り混じった笑みを浮かべた。
「さて――」
梵寸は周囲を見渡し、夜の比叡を睥睨する。
「延暦寺の僧兵が山へ戻るのを確認しつつ、都へ下るとしようか」
「承知しました。都に戻られるので?」
「うむ。計算すれば、本圀寺には二千の兵力が集まっておる。一方、延暦寺僧兵は九千。しかし――見よ」
梵寸は、遠くの山影を指さした。
「わしらが本拠に火を放ったゆえ、三千ほどが戻った。つまり、本圀寺へ攻め寄せるのは六千ということじゃ」
「確かに……」
「わしの作戦は完璧じゃ。忍びは冷徹に事を運ぶのが務めよ。多くの民を死なせずに済んだのう。ぬはははは」
梵寸は愉快そうに笑い、霞を担ぎ上げようとした。そのとき、雷丸が一歩前に出た。
「継尊様……霞は、拙僧が運びます」
額から血を流しながらも、雷丸は霞に着物をかけ、そのまま背負い込んだ。梵寸は一瞬眉を上げたが、何も言わず、それを許した。
二人は都へ向けて歩き出す。
焦げた山風が背を押し、朝焼け前の空が、遠くで静かに揺れていた。




