第九十四話 霞の血、雷丸の誓い
風が吹いていた。
八月四日未明、比叡の尾根を渡る夜風は冷たく、土と草の匂いを混ぜた湿気を、斬り立つ岩場へと押し寄せていた。闇の底から吹き上がるその風は、生き物の呼吸のように大地を揺らし、戦の前触れを告げているかのようだった。
その風にあおられ、破れた衣がはためく。
霞が倒れていた。肩口から裂けた衣は肌をのぞかせ、泥にまみれている。胸を上下させながら必死に息を繋ぐ様子から、戦いがどれほど苛烈であったかが一目でわかる。
霞の惨状を見た梵寸の眼が、闇より深く沈んだ。
少年の身でありながら、その視線には老練の修験者めいた重さがあった。年齢にそぐわぬ断罪の気配が、その場の空気をひと息で変えた。
「……お主たち。無事に帰れると思うなよ」
梵寸が低くつぶやいた瞬間、辺りの僧兵たちがざわりと身を強ばらせた。天境に踏み入った者が放つ覇気。それを知覚した刹那、彼らの体は震えた。
「うん……? あ……足が震えておるぞ……これは……」
華王房は、梵寸を見ただけでカタカタと足が震え出したことに疑問を持つ。
岩壁を蹴るような足音が闇を裂き、一人の影が疾風のように飛び込んでくる。
「継尊様は早すぎますぞ……!
霞……まさかやられたのか!」
雷丸であった。修験者の法衣を揺らしながら駆けつけた彼は、霞の姿を目にした瞬間、血の気を引かせ、次いで燃えるような怒気を全身にまとわせた。
「おのれ、覚悟しておけ……!」
雷丸は華王房ら延暦寺の僧たちを睨みつけ、口の端を噛んだ。
「継尊様! 霞の仇は、この拙僧にお任せを!」
声は震えていたが、恐れではない。怒りと悔しさ、それに姉のように慕う霞を傷つけられた痛み。雷丸の胸には、修験者としての矜持と家族に等しい情が同時に燃えていた。
梵寸はその感情を確かめるように雷丸を見た。
作戦は全て成功している。もう焦る必要はない。ならば――雷丸の経験値を積ませるほうが、後の戦いにとっては重要だ。
「うむ。おぬしに任せよう。ただし――華王房と一対一じゃ」
短く告げたその声は、年齢に見合わず静かで重い。
梵寸はそのまま七人の僧兵に視線を向け、殺意を放った。
「ぐぁあああああああっ!」
真境ですらない僧兵たちは、その殺気の圧に抗えるはずもなかった。膝が砕けて倒れる者。泡を吹き、血反吐を吐いて転げ回る者。息が詰まり、目を見開いたまま意識を手放す者。七人が七人とも、一息で地に伏した。まるで命を刈られたかのように。
「こ、これは……何という……」
華王房の額に冷たい汗がつたう。
梵寸はただの童ではない。あの眼、あの圧、あの覇気――数十年の修行者すら届かぬ境地に、少年が足を踏み入れている。
「貴様……何者だ!」
華王房の叫びは動揺に満ちていた。しかし梵寸は返事をしない。ただ霞の傍に目を落とし、その呼吸がまだ続いていることに安堵したように、小さく息を整えただけだった。
華王房は唇を噛み、雷丸へと向き直る。
「来い、修験者。霞の時と同じく、真境上位の力、見せてやろう」
雷丸は短刀を二本、逆手に抜いた。月光がわずかに雲を離れ、白い煌めきが刃を照らした。二刀の切っ先に宿る緊迫は、夜気さえ震わせそうな鋭さだった。
「霞を傷つけた報い……ここで払わせる」
雷丸の声は低い。怒りに任せるのではなく、修験者としての静かな覚悟に満ちた声音だった。
◇◇◇
雷丸が地を蹴ると同時に、砂混じりの土埃が舞い上がった。比叡の斜面に響く足音は、まるで獣の跳躍。短刀二本が弧を描き、華王房へ斬りかかる。
華王房は薙刀を横に構え、滑らかに受け流した。
雷丸の武器は短刀。間合いは近いが、踏み込むたびに身体に負荷がかかる。華王房はその間合いの差を巧みに利用していた。
「ふっ……遅い!」
華王房が足を払うように薙刀を揺らす。雷丸は土を蹴り、身をひねって避ける。短く鋭い交錯が何度も続いた。
息が荒い。
雷丸は自分が追い詰められていると理解していた。境地の差は埋まらない。霞のように、実力差で押し切られる未来が頭をよぎる。
しかし――引けない。
霞の衣が破られた姿が脳裏から離れなかった。
兄弟のように育った。山で寒さに震えた夜、霞がかけてくれた薄い布。修行で倒れた夕暮れ、励ましてくれた言葉。それらが胸の奥で燃え盛り、雷丸を突き動かしていた。
(退くことなど許されぬ)
足運びが速くなる。短刀の斬撃が走る。
華王房が薙刀の柄で受け、押し返す。
「修験者の癖に、しつこい奴よ!」
「貴様こそ――霞を弄んだ罪、覚悟せよ!」
雷丸の声が、張り詰めた闇に響いた。
華王房はわずかに眉を動かす。雷丸の執念は想像以上だ。だが実力差は覆らない。
雷丸の呼吸が乱れた瞬間だった。
華王房の目が鋭く細まる。
「終わりだ!
延暦寺流薙刀術――第一ノ型・横閃嵐斬!」
抜けるような風切り音が闇を裂く。
華王房の薙刀が横一閃、雷丸の胴を断つように走った。
雷丸は反射で身をそらす。
だが、完全には避けきれなかった。
肉を断つ音とともに、肩口から鮮血が舞い上がる。
「ぐあああああああああっ!」
その瞬間、雷丸の苦悶の叫びが、闇の比叡山にこだましていった。
雷丸は膝を折り、片手を地に突いた。
短刀はなお手放さない。しかし右肩から流れ出る血が、腕を震わせていた。
「……雷丸」
梵寸は呟くも、冷静に対決を傍観する。
夜風が、戦の匂いを押し流すように吹き付ける。
倒れそうになりながらも立ち上がろうとする雷丸。その姿を見つめる梵寸の眼には、怒りと焦燥、そして深い決意が燃え上がっていた。




