第九十三話 修験尼の散華
寺町の外れ――草原を舐める炎が闇を押しのけ、紅い光が未明の空を染めていた。
風に煽られた煙が山肌へ流れ、焦げた匂いが刺すように漂う。
霞は岩陰から静かに身を起こした。
修験尼の法衣は泥と血で重く、袖には裂け目が走る。
その姿は満身創痍でありながら、瞳だけはまだ折れていない。
(この斜面を燃やせば、継尊様のところへ……)
希望は微かな火種のように胸に残っていた。
しかし、その火種が風に吹き消されるのは一瞬だった。
草むらが低く鳴り、闇が裂ける。
松明を掲げた十の影が現れ、鉄鎖帷子が火光を反射した。
「邪魔をしていたのは……貴様らであったか」
鋭い声が闇を裂く。
延暦寺僧兵・上位武僧――華王房。
剃り上げた頭には古い刀傷が走り、鍛え抜かれた両腕は岩のように太い。
肩に担いだ薙刀は重い存在感を放ち、彼の背後で僧兵たちが半円を描き、退路を塞ぐ。
霞の喉がかすかに鳴った。
修験の山で鍛え、忍びの技を叩き込まれてきたとはいえ、僧兵十名は重すぎる。
華王房は瞠目もせず、冷たく言った。
「法華の者と問答で拙僧に恥をかかせ、計画も乱した。あの借り――ここで返させてもらう。これで中央への復帰も叶うであろう」
浅ましい欲を隠しもせぬ声音。
霞は奥歯を強く噛んだ。
(勝てぬなら、切り抜けるしかない……!)
風が草を揺らした瞬間、霞は踏み出した。
「無音忍法第一ノ型――朧斬り!」
空気が裂け、透明な刃が走る。
「ぐぁああ!」
僧兵三名の足元をなぞり、そのまま倒れ伏した。
土に転がった松明の火がパチ、と音を立てた。
わずか一瞬の斬撃。
「下がれ。あれは真境の女だ。雑兵では触れることすら叶わぬ」
華王房は部下を制し、薙刀を静かに構えた。
霞は呼吸を整える。
背中の汗が冷え、胸がひゅうと鳴った。
「そなたも……真境の行に至った者か」
問いかけに、華王房の瞳がわずかに揺らぐ。
「拙僧は中位の真境。お前のような浅き修験とは重みが違う。
円城寺との初陣、近江土豪の討伐、六角との戦、そして本願寺――幾度も死地を越えて、ようやく掴んだ境地よ。
山での鍛錬など、戦場を知らぬ者の戯れにすぎぬ」
その言葉は刃のように霞の胸へ刺さった。
滝行で震えた日。
断食で胃が軋んだ夜。
崖を指の根だけで登りきった修行。
それでも――彼女は“人の死を踏み越える修羅場”を知らない。
霞は小さく息を吸い、笑った。
「山を“戯れ”と言うのなら……試してみるといいわ」
挑発に、華王房は鼻で笑い、踏み込んだ。
薙刀が月光を裂いた。
霞は身を沈め、影へと溶ける。
「無音忍法第一ノ型――闇影潜行」
気配がふっと消えた。
風だけが残り、草が揺れる。
華王房は気配を追い、岩のように動かず間合いを測る。
霞は影を滑り、大きく背後へ回り込む。
短刀が閃き、標的へ迫る――
火花。弾かれた。
(薙刀の間合いが深い……正面からでは崩せない)
月が雲に隠れ、闇が濃く落ちる。
霞の五感が研ぎ澄まされ、風の流れがはっきりと聞こえた。
(いまだ――)
「無音忍法第一ノ型――朧斬り!」
残光のような影が幾筋も走る。
華王房の瞳が一瞬揺らぎ、霞の刃が肩を裂いた。
血が滴る。
「延暦寺流薙刀術――第一ノ型・横閃嵐斬!」
華王房が地を蹴った。
薙刀が円を描き、嵐のように襲いかかる。
受けた瞬間――衝撃が霞の腕を砕き、身体が浮いた。
岩に叩きつけられ、息が止まる。
視界が揺れ、月が二つ三つに滲む。
「……っ、継尊様……!」
声にならない叫びが漏れ、霞の身体は地へ崩れ落ちた。
法衣が破れ、肩から白い肌が覗く。
僧兵たちは興奮に息を荒くし、円陣を組む。
「華王房様、傷つけずに捕えましたぞ」
「神前供養を行い、清めて差し上げましょう」
霞は震える指先で地面を掴むが、もう力は入らない。
視界が赤く揺れ、何が近づいてくるのか判別もできない。
次の瞬間、布が乱暴に引きちぎられるような音が、耳元で響いた。
(ここで……終わる……の?)
そのとき――。
大地が爆ぜた。
「――霞ィイイイイイイイ!!!」
怒号が炎を割り、神気をこめた声だけで僧兵の三人が横から吹き飛ばされた。
凄まじい衝撃で草を薙ぎ倒し、宙を舞って地に叩きつけられる。
「な……なにぃ!」
僧兵たちが一斉に振り向いた。
炎の裂け目から現れた男――
梵寸。
その目には怒りすら越えた、底なしの静かな殺気が宿っていた。
霞は震える声で名を呼ぶ。
「ああっ!継尊……様……こんな姿……見られたく……ない……」
霞は、消え入るような弱い言葉でそう言うと意識を失った。
梵寸は、服のはだけた霞の状態を一度だけ確認し、静かに、しかし狂気じみた力強さで僧兵たちの中心へ歩み出た。
炎が揺れる。
風が止まる。
僧兵たちの喉がごくりと鳴った。
そして梵寸は、低く、震える声で言った。
「……おぬしら。二本足でまともに歩いて帰れると思うなよ」
その瞬間、空気が裂けた。
僧兵たちは慌てて武器を構える。
梵寸は迷いの欠片もなく、一歩、前へ。
爆ぜるような緊張が草原を包み――




