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乞食からはじめる、死に戻り甲賀録  作者: 怒破筋
第二章 天文法華の乱ーー燃えゆく京
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第九十三話 修験尼の散華

寺町の外れ――草原を舐める炎が闇を押しのけ、紅い光が未明の空を染めていた。

風に煽られた煙が山肌へ流れ、焦げた匂いが刺すように漂う。


霞は岩陰から静かに身を起こした。

修験尼の法衣は泥と血で重く、袖には裂け目が走る。

その姿は満身創痍でありながら、瞳だけはまだ折れていない。


(この斜面を燃やせば、継尊様のところへ……)


希望は微かな火種のように胸に残っていた。

しかし、その火種が風に吹き消されるのは一瞬だった。


草むらが低く鳴り、闇が裂ける。

松明を掲げた十の影が現れ、鉄鎖帷子が火光を反射した。


「邪魔をしていたのは……貴様らであったか」


鋭い声が闇を裂く。


延暦寺僧兵・上位武僧――華王房。

剃り上げた頭には古い刀傷が走り、鍛え抜かれた両腕は岩のように太い。

肩に担いだ薙刀は重い存在感を放ち、彼の背後で僧兵たちが半円を描き、退路を塞ぐ。


霞の喉がかすかに鳴った。

修験の山で鍛え、忍びの技を叩き込まれてきたとはいえ、僧兵十名は重すぎる。


華王房は瞠目もせず、冷たく言った。


「法華の者と問答で拙僧に恥をかかせ、計画も乱した。あの借り――ここで返させてもらう。これで中央への復帰も叶うであろう」


浅ましい欲を隠しもせぬ声音。

霞は奥歯を強く噛んだ。


(勝てぬなら、切り抜けるしかない……!)


風が草を揺らした瞬間、霞は踏み出した。


「無音忍法第一ノ型――朧斬り!」


空気が裂け、透明な刃が走る。


「ぐぁああ!」


僧兵三名の足元をなぞり、そのまま倒れ伏した。

土に転がった松明の火がパチ、と音を立てた。

わずか一瞬の斬撃。


「下がれ。あれは真境の女だ。雑兵では触れることすら叶わぬ」


華王房は部下を制し、薙刀を静かに構えた。


霞は呼吸を整える。

背中の汗が冷え、胸がひゅうと鳴った。


「そなたも……真境の行に至った者か」


問いかけに、華王房の瞳がわずかに揺らぐ。


「拙僧は中位の真境。お前のような浅き修験とは重みが違う。

円城寺との初陣、近江土豪の討伐、六角との戦、そして本願寺――幾度も死地を越えて、ようやく掴んだ境地よ。

山での鍛錬など、戦場を知らぬ者の戯れにすぎぬ」


その言葉は刃のように霞の胸へ刺さった。


滝行で震えた日。

断食で胃が軋んだ夜。

崖を指の根だけで登りきった修行。


それでも――彼女は“人の死を踏み越える修羅場”を知らない。


霞は小さく息を吸い、笑った。


「山を“戯れ”と言うのなら……試してみるといいわ」


挑発に、華王房は鼻で笑い、踏み込んだ。

薙刀が月光を裂いた。


霞は身を沈め、影へと溶ける。


「無音忍法第一ノ型――闇影潜行」


気配がふっと消えた。

風だけが残り、草が揺れる。


華王房は気配を追い、岩のように動かず間合いを測る。


霞は影を滑り、大きく背後へ回り込む。

短刀が閃き、標的へ迫る――


火花。弾かれた。


(薙刀の間合いが深い……正面からでは崩せない)


月が雲に隠れ、闇が濃く落ちる。

霞の五感が研ぎ澄まされ、風の流れがはっきりと聞こえた。


(いまだ――)


「無音忍法第一ノ型――朧斬り!」


残光のような影が幾筋も走る。

華王房の瞳が一瞬揺らぎ、霞の刃が肩を裂いた。


血が滴る。


「延暦寺流薙刀術――第一ノ型・横閃嵐斬!」


華王房が地を蹴った。

薙刀が円を描き、嵐のように襲いかかる。


受けた瞬間――衝撃が霞の腕を砕き、身体が浮いた。

岩に叩きつけられ、息が止まる。

視界が揺れ、月が二つ三つに滲む。


「……っ、継尊様……!」


声にならない叫びが漏れ、霞の身体は地へ崩れ落ちた。

法衣が破れ、肩から白い肌が覗く。


僧兵たちは興奮に息を荒くし、円陣を組む。


「華王房様、傷つけずに捕えましたぞ」

「神前供養を行い、清めて差し上げましょう」


霞は震える指先で地面を掴むが、もう力は入らない。

視界が赤く揺れ、何が近づいてくるのか判別もできない。

次の瞬間、布が乱暴に引きちぎられるような音が、耳元で響いた。


(ここで……終わる……の?)


そのとき――。


大地が爆ぜた。


「――霞ィイイイイイイイ!!!」


怒号が炎を割り、神気をこめた声だけで僧兵の三人が横から吹き飛ばされた。

凄まじい衝撃で草を薙ぎ倒し、宙を舞って地に叩きつけられる。


「な……なにぃ!」


僧兵たちが一斉に振り向いた。


炎の裂け目から現れた男――

梵寸。


その目には怒りすら越えた、底なしの静かな殺気が宿っていた。


霞は震える声で名を呼ぶ。


「ああっ!継尊……様……こんな姿……見られたく……ない……」


霞は、消え入るような弱い言葉でそう言うと意識を失った。


梵寸は、服のはだけた霞の状態を一度だけ確認し、静かに、しかし狂気じみた力強さで僧兵たちの中心へ歩み出た。


炎が揺れる。

風が止まる。

僧兵たちの喉がごくりと鳴った。


そして梵寸は、低く、震える声で言った。


「……おぬしら。二本足でまともに歩いて帰れると思うなよ」


その瞬間、空気が裂けた。

僧兵たちは慌てて武器を構える。


梵寸は迷いの欠片もなく、一歩、前へ。


爆ぜるような緊張が草原を包み――


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