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乞食からはじめる、死に戻り甲賀録  作者: 怒破筋
第二章 天文法華の乱ーー燃えゆく京
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第九十二話 比叡の火口に立つ者 ― 天文法華の乱、雷火の暁

三人は比叡山の寺町近く、湿り気の抜けた茂みに数時間も身を潜めていた。


乾いた風が地を撫で、枝先を細やかに震わせる。

夜は音を潜め、虫さえ息をひそめている。

闇の底には、戦火の予兆だけが息づいていた。


延暦寺軍は最後尾まですでに見えないほど離れている。

かねてから計画してきた策を実行するときであった。


「良いか、作戦を伝える。これより三手に分かれ、都より見えるよう、横広に火を放つのじゃ。

寺町へ火の手が及ばぬよう、細心の注意を払え」


梵寸は静かな所作で、火打石と火打金、乾いたきのこ――火口を霞と雷丸へ渡した。

掌に落ちる道具の重みは小さい。

だが、その使命の重さは二人を無言のうちに緊張させた。


「では作戦開始じゃ」

「はい! 継尊様!」


三人は同時に地を蹴る。


霞と雷丸は修験者として鍛えた身の軽さで闇へ滑り込み、黒影のように大地を駆けた。

草の海が裂け、またすぐ閉じる。

彼らが踏んだ痕跡は、夜の底へ吸い込まれるように消えた。


所定の位置に着くと、二人は息を整え、火口へ火花を散らす。


ぱちり、と乾いた音。

次の瞬間、風が炎を抱き上げ、乾いた草を舐めるように走った。


半里ほどの距離まで、炎はまるで意思を持つ獣のように広がっていく。

赤い舌が闇を押しのけ、渦を巻く黒煙が月を覆った。


「火事じゃ! 燃えておるぞ!」


寺町から怒号が上がる。


木造の家々は火に脆い。

住人たちが木桶を抱えて飛び出し、慌ただしく走り回った。


「作戦成功! これで撤退ね。易しい仕事で助かったわ」


霞は胸の奥に溜まっていた息を、そっと吐いた。


安堵が喉を通り抜け――ほんの刹那。


その瞬間、背の皮膚がひりつく。

森の息遣いが変わり、風に混じって“重さ”が落ちた。


霞は反射より速く、わずかに体をずらす。


矢が闇を裂いた。

びゅ、と細い音。


次いで、熱い痛みが肩をかすめる。


(しまっ――)


思考より先に、体が動いた。

霞は地面へ身を投げ、草と土を巻き上げながら転がる。


地の湿り、草の鋭さ、土砂の匂いが一気に鼻を突いた。


立ち上がると同時に、二の矢、三の矢、四の矢。

夜の帳を貫き、雨のように降り注ぐ。


霞は呼吸を忘れ、感覚だけで風を裂いた。

足裏が土を蹴るたび、影が跳ね、身体が一瞬ずつ霞む。


神速――真境に至った超人としての力が、いまようやく牙を剥いた。


矢はかすりもせず、草原に突き刺さっては震える。


「……どこから撃ったの?」


霞は気配を探る。


だが次の瞬間――。


「中々やるのう」


闇の奥から、ゆっくりと声がこぼれた。

僧侶特有の湿りを帯びた響き。


炎を背に、灯火に縁取られた僧兵たちが円を描くように姿を現す。

そして、その中心に――。


「邪魔していたのはお前たちであったか」


華王房だった。


十人の僧兵を従え、霞を半円に囲むように立つ。

その笑みは、獲物を前に舌なめずりする獣めいている。


「いつの間に……?」


霞の胸が冷たく沈んだ。

修験尼としての感覚で敵を探ってしまった。

忍びとしての未熟――その隙を、彼は見逃さなかったのだ。


「問答で恥をかかされたうえ、法華宗を倒す機会も失った。

だがな……忍びが何か企むと踏んで、張り込んでおったわ!

この功で中央に戻れるぞ! うははははっ!」


華王房の哄笑が、火の色を含んで震えた。

炎が彼の頬を赤く染め、影が歪んで揺れる。


霞は奥歯を噛む。

熱い火柱、冷える気配。

その二つが胸中で衝突し、焦げるような緊張へ変わった。


逃げ道は――

どこにも、なかった。


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