第九十一話 比叡山を襲う炎と混乱ー死に戻った忍びの乱世行
八月四日未明。比叡山の麓は、夜気が冷たく沈み、草葉の露が微かに光を宿していた。
風が吹くたび、山肌に積もった乾いた土が香りを立て、霧のように細い砂粒が宙に舞った。
梵寸は延暦寺の影が落ちる麓に、静かに立っていた。
その眼は、山を越えて京へ続く暗闇を射抜いている。
「そろそろ小吉と華がお梅と近江に逃げた頃かの」
低く漏らした声は、未明の空気に吸い込まれるように淡く揺れた。
死に戻りを繰り返した者だけが持つ、あの奇妙な落ち着きと緊張が背中に張りついている。
「後鬼静雅からの連絡がそろそろ来ると思うが……うん?」
梵寸は眉を寄せた。
奈良方面――その暗がりの奥から、二つの影が土を蹴り、矢のように駆けてくる。月明かりが彼らの輪郭を鋭く切り取った。
「継尊様ぁ! ただいま到着しましたぞ!」
「継尊様! 村から一度も休まずに走って来れたのも継尊様のおかげですぞ!神速は使い勝手が良い!」
息を荒げながらも声だけは威勢のいい後鬼霞と前鬼雷丸だった。
雷丸は荒々しい気迫の中に修験者特有の礼を残し、霞はその後をぎりぎりで追っていた。
「よく来たな。早速で悪いが報告を頼む」
梵寸の声音は静かだが、その奥には急を要する気配が漂っている。
興福寺軍の足止めが失敗していれば、すべての作戦が瓦解する。京の都を敵に明け渡すわけにはいかない。
「承知いたしました! 興福寺軍は、ほぼ全僧兵が沈黙しております。後方支援の者は介抱しておりますが、継尊様仕込みの強力な睡眠薬ですから、朝まではぐっすり寝ておるでしょう。策は首尾よく行きましたぞ!」
雷丸は胸を張って告げた。
梵寸は僅かに目を細め、感情を表に出さぬまま言葉を受け取る。
「ふむ、よくやった。これで一つの山は越えたと言ってもいい。延暦寺軍も、そろそろ比叡山を降りる頃合いじゃの」
顎に髭のない指先を添える。
死に戻り前の癖――その仕草が、老練な影を彼の幼い顔立ちに落とした。
「霞も継尊様に会えることを、恋する乙女のように大変喜んで……ぶおっ!」
ぱしん、と乾いた音が山の木霊を震わせた。
霞の鋭い手刀が、雷丸の首筋に見事な角度で突き刺さっていた。
「何余計なことを報告してるのよ! 馬鹿雷丸!」
憤りの熱が声に宿る。目は三角に吊り上がり、それでも羞恥と心配が微妙に混ざっている。
そしてちらりと梵寸を見た。その視線は、喜びを隠し切れていない。
「やれやれ、お主たちは相変わらずだのう」
梵寸は肩をすくめ、両手を小さく広げた。
だがその軽さの裏に、迫る災厄への焦りは消えぬ。
「だが、時がない。すぐに次の作戦に移るぞ」
「はい! 継尊様!」
雷丸と霞の返答は、すでに修験者の覚悟を帯びていた。
「継尊様!ご覧ください!比叡山からついに延暦寺軍が降りていきますぞ」
雷丸が山上を指さした瞬間、世界の空気が変わった。
風が止み、夜の闇が一呼吸置くように静まる。
次の瞬間、比叡山の尾根一帯が――ゆっくりと、脈動するように黄金色に明滅した。
梵寸が細く息を呑む。
霞も雷丸も、言葉を失ったまま立ち尽くす。
山上の闇を割り、無数の松明が一本の大河のように流れだした。
炎の列は尾根から谷へと連なり、やがて光の滝となって山肌を照らす。
その明かりに浮かび上がったのは――
二万の僧兵。まるで仏の軍勢が天より降臨したかのようであった。
大太鼓の低音が響き、山腹が震える。
ひと叩きごとに地が鳴り、梵寸たちの足元の石が微かに跳ねる。
僧兵たちは黒々とした僧衣の上に鎖帷子をまとい、胸には各派の紋が揺れ、
松明に照らされた刃は、燃えるような赤金に染まり――
それが二万本、夜空へ向けて一斉に揺らめく。
雷丸は、その光景に膝が抜けそうになっていた。
「な、なんだこれは……山が……山そのものが歩いておる……」
霞の声は震え、けれど瞳は吸い込まれるように輝いていた。
「火の川……いいえ……仏の軍……?」
比叡山を包む霧が、松明の熱でゆっくりと上へ舞い上がる。
その霧の幕越しに見える僧兵たちは、まるで炎の中から姿を現す守護の明王のようであった。
法螺貝が鳴る。
山を裂くようなその音は、雷鳴のごとく尾根から尾根へと反響する。
僧兵二万――天台宗の誇りと威光を背負う者たちが、今まさに大河のごとく京へ向けて降りていく。
その姿は、ただの軍勢ではない。
宗の威信そのものだった。
大軍の動きに合わせ、山風が下へ吹き下ろし、土埃が舞い、香の匂いのような乾いた土の香りが鼻を刺す。
光に照らされたその土煙が、僧兵の隊列を黄金の靄で包み、
まるで阿修羅の群が夜を割って進軍するかのような迫力を生み出していた。
霞は、息を呑みながら問う。
「こ、これが……延暦寺軍……これが天台宗の、力……」
雷丸の喉が震える。
「この威……この数……継尊様、これはもう軍ではなく……天の裁きにございます……」
梵寸だけは、静かにその光景を見据えていた。
幼い顔立ちに灯る炎の光は、まるで百戦を生きた者の瞳のように深い。
「案ずるな。あれは威ではあれど、今宵の計の内にある。
本来なら三倍はいた軍勢よ。それをここまで減じたのじゃ。
法華宗の城塞が固まっておる今、京はまだ死なん」
その声音は、迫り来る巨流を前にしてなお乱れぬ、
まるで山そのものが語りかけるかのような静けさだった。
霞と雷丸は、再び山上を振り返る。
光の滝は尾根から絶え間なく流れ、比叡山はまるで巨大な神獣がその身体を揺らしながら、
京へ向けて歩み出したかのようであった。
天台宗の先祖たちが見ても、胸を打たずにいられないだろう。
その威、誇り、そして宗の力が、闇夜の山を圧倒的な迫力で埋め尽くしていた。




