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乞食からはじめる、死に戻り甲賀録  作者: 怒破筋
第二章 天文法華の乱ーー燃えゆく京
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第九十話 八月四日の空裂ける音

月の光は雲に遮られ、妙蓮寺の屋根がぼんやりと黒く沈んでいた。

八月四日、未明。

空気は湿り、草の匂いと焼けた油のような戦の気配が、境内の隅々にまで染みついていた。


妙蓮寺の土塀はすでに補強され、門前には柵が二重に組まれている。

薙刀を構える僧兵、弓を引き絞る町衆、そして粗末な槍や棍棒を手にした乞食衆の兵士たち。

彼らが肩を寄せ合うように立ち、まだ見ぬ敵の影を探していた。


その中に、十三歳の僧の子・経心きょうしんがいた。

薙刀を握る手は汗で滑り、雑念が指の隙間から漏れ出すようだった。


――来る。

延暦寺の僧兵が、ついに攻め寄せる。


数日前、住職の日弘上人から告げられたその言葉が、胸の奥で何度も反芻される。


「ついに拙僧も……実戦に立つのか。延暦寺の僧兵を必ずや……倒す……」


声は震えていたが、経心は口元だけでも強く結んでみせた。

妙蓮寺は法華宗二十一ヶ寺のうち、本圀寺に続く二番手の戦力を誇る。

落ちる寺ではない――そう自分に言い聞かせるしかなかった。


だが、胸の鼓動はどうにも収まらなかった。経心は深く息を吐き、襲いかかる恐怖を押し返すように目を閉じた。

(……大丈夫だ。あの男と、何百回も刃を交わしてきたではないか)

そう思った瞬間、脳裏に浮かんだのは数カ月前から梵寸と共に稽古していた日の記憶だった。

◇◇◇

林の奥。朝露がまだ地面に残り、空気が冷たい。

経心は薙刀を構えたまま、何度も何度も体勢を崩していた。

敵役を務める梵寸の短刀は、触れれば痛みを覚えるほど正確で、容赦がない。

「立て、経心。弱るのは構わぬが、止まるのは許さぬ」

その声は年齢に似つかわしくないほど冷静で、しかし妙な熱を孕んでいた。

膝をつく経心が歯を食いしばって立ち上がると、梵寸は短刀の切っ先で地面を軽く叩き、位置を示した。

「もう一度じゃ」

経心は息が切れ、視界が揺れる。それでも前へ。

懸命に薙刀を振り切った瞬間、梵寸はふっと視線を逸らし、

「……その調子じゃ。おぬしは伸びる。いずれ真境に至り、超人にもなるであろう」

と、小さく、だが確かに優しさの混じった声を洩らした。

経心はその一言に胸を熱くし、あの日から幾度も奮い立たされてきた。

氷のように冷たい目を持ち、背後に立たれただけで身がすくむ男――梵寸。

年齢こそ十二だが、経心の知る誰よりも恐ろしく、誰よりも静かな者だった。


かつて経心は、興味半分、恐怖半分で梵寸に尋ねたことがある。


「師匠……人を、殺したことがございますか?」


あまりにも平然としたその瞳に、真意を探りたくなったのだ。

返ってきた答えは、常識を越えていた。


「うむ。百では済まぬの。四桁……千は軽く殺したかの」


当然、冗談だと思った。

だが梵寸の目は、微動だにせず、揺らぎもなかった。

笑いもしない。怒りもしない。

ただ静かに、事実だけを述べる色。

その時、経心の背筋は氷の柱に触れたように震えた。

あれほど心の底から震えたのは、生まれて初めてだった。

◇◇◇

――その男と、何百回も稽古を積んできたのだ。

自分は弱くない。

そう信じたい。信じなければ立てない。


だが、胸の奥にはひとつだけ、どうしても晴れない影があった。


“真境”に至れなかったこと。


華も、小吉も、あの境地を越えた。

経心だけが踏み込めず、夜に行われる鍛錬に参加できなかった。

日中の稽古だけでは、どうしても足りなかったのだ。


(戦が終われば……日弘様に願い出よう。夜の鍛錬にも出られるように。

このままでは、皆に追いつけぬまま終わってしまう)


そんな思いを抱えたまま、経心は門の前に立つ。


その横で、日弘上人が兵たちに指示を飛ばしていた。

ふと、経心に目を向け、穏やかな声で言う。


「経心よ、そなたも元服を終えた身。だが恐れることはない。

戦は籠城戦じゃ。拙僧らが有利よ。直接刃を交えることは少なかろう。

胸を落ち着かせておけ」


経心は深く頭を下げた。


「日弘様……ありがたく存じます。少し心が軽くなりました。

しかし、そちらの御仁は……?」


日弘の隣に、見慣れぬ僧兵が立っていた。

精悍な顔立ち、鋭い目、異様な筋肉質な体、しかしどこか飄々とした空気をまとっている。


その男は一歩進み、低く名乗った。


「拙僧は幸隆と申す。

妙蓮寺の戦にて、軍師の役を仰せつかって参った」


その声音は静かで、しかし妙に重みがあった。

経心は自然と背筋を伸ばした。


「この者の指示には従うのじゃぞ、経心」


「はい、日弘様!」


そう言って頭を下げた、その瞬間であった。


門の上――見張り台の僧兵が、矢を番えたまま硬直し、次の瞬間、声を上げた。


「――来るぞッ!

東山の道より、延暦寺の軍勢が……押し寄せてくるッ!」


その声は僧兵でありながら震え、叫びは夜気を裂いて響いた。


経心は思わず息を呑む。

胸を握り潰されるような緊張が走り、膝がわずかに震えた。


――来た。


ついに、この日が来たのだ。


背後から、僧兵たちの叫びが次々と重なる。


「弓、構えよ!」

「門固めい! 柵の縄を締め直せ!」

「油壺を運べ!」


空気は一瞬にして、張りつめた刃のようになる。


その中でも、経心は薙刀を強く握りしめた。

手の震えを、気合いで押しつぶすように。


(負けるわけにはいかぬ……!)


声にならぬ声が、喉の奥で燃え上がる。

梵寸との訓練、日弘上人の教え、妙蓮寺の人々の誇り。

全てがひとつに結びつき、彼の小さな身体を支えていた。


「来るなら来い……拙僧も、覚悟は決まっておる……!」


震えを押さえつけ、経心は門の方をにらみつける。


東の空が、わずかに朱を帯び始めていた。

その薄い光の中、山道の向こうから、金属の触れ合う音がわずかに響きはじめる。


それは、夜明けの風に乗って広がる、戦の足音だった。


「やるぞ……妙蓮寺の意地を見せねばならぬ!」

経心は胸の奥で叫びつつ、足を踏みしめた。

そして――東山の影が、不気味に揺れた。

延暦寺の軍勢が、ついに姿を現し始めたのであった。


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