第八十九話 天文法華の乱 比叡山・八月四日未明 ―天台座主・良淳、怒れる闇に号す―
湿りついた夏の闇が、比叡山の峰々に重く垂れ込めていた。
八月四日、未明。
夜虫の声すら遠慮しているかのように弱く、風もない。
ただ、二万の僧兵が息を潜めて並ぶ気配だけが、霧の底でうごめいていた。
焚かれた松明が列の間で揺れ、火の粉が夜空へ昇っては闇に溶ける。
草木は湿り、甲冑は露を吸い、鉄の匂いが強く漂う。
まるで山そのものが、大きく鼓動しているようだった。
その中心に、天台座主・良淳が立った。
夜風もないのに、彼の袈裟だけがふっと揺れたように見えた。
静かな姿だった。だからこそ、二万の眼差しが一斉にそこへ吸い寄せられた。
良淳はしばらく沈黙を保ち、未明の深い闇を背負ったまま、声を発した。
「……諸卿。今宵、比叡山は、ついに矛を執る」
低く、しかし山全体を震わせる響きだった。
「この八月四日の出陣は、決して軽挙ではない。
この数年、法華宗――日蓮門下の徒どもが行い来たった乱妨を、
もはや黙然として見過ごすこと叶わぬがゆえである」
松明がぱち、と爆ぜた。
僧兵たちの顔には汗と露が光り、無言の怒りが宿った。
「皆も記憶していよう。松本問答の辱めを」
良淳の声は、静かに鋭かった。
「我ら天台の学僧を嘲り、『天台は廃るべし』と公衆の前で罵倒した。
宗論の体を取りながら、実はただ我らの威信を地に落とすための戯言であった。
そののち、やつらは京の市井を廻り、我らの檀那を奪い、
山門の寺領へも堂々と踏み入った。
さながら比叡山を恐れぬと、天下へ誇示するかのごとくである」
僧兵の列がざ、と震える。
夏の闇に押し込められた怒りが、わずかに噴き上がった。
良淳は続けた。
「法華宗は本来、武を持たぬ宗であるはずだ。
だが現実はどうだ。町を扇動しては他宗の堂舎を焼き、
山科法華の乱では将軍家さえも手を焼いた。
その異様なる振る舞いは『信仰の熱』ではない。
ただの驕慢であり、天下の秩序を乱す疫病のごとし」
松明の光が、良淳の横顔を照らした。
その表情は怒りよりも哀しみに近かった。
比叡山を守り続けた者の、重い覚悟の色だった。
「諸卿。比叡山は千年の法灯を守る山である。
だが、法華宗の徒どもはその灯を吹き消さんとしておる。
このまま放置すれば、いずれ延暦寺の堂塔にも火の手が上がるであろう。
これはもはや、宗論ではない。山門の存亡を賭した防戦である」
僧兵たちは深く頷いた。
薙刀を握る手が強張り、足が震えている者もいる。
だがそれは恐れではなく、弓を弦ぎ切る直前の張り詰めた気配だった。
良淳はゆっくり杖を掲げた。
夜空の黒に、杖の先だけが松明の赤を受けて光る。
「八月四日、未明。
今まさに我らは、法華宗を討ちに山を下る。
この行は、怒りのためではない。
比叡山が比叡山として存り続けるため――
仏法の秩序を守るための戦である!」
空気がびり、と震えた。
二万の僧兵が息を呑む気配が、暗闇を満たした。
良淳は、その全員を見渡すように視線を巡らせ、
大地を踏み鳴らすような声で叫んだ。
「諸卿ッ――!」
一瞬、風が生まれたように感じた。
山の霊気がざわりと揺れた。
「今より、山門の威を示す!
法華宗の乱妨、ここに断つ!
我ら二万、比叡の衆徒――
出 陣 で あ る ッ!!」
その叫びと同時に、法螺が鳴った。
夜闇を裂き、谷を越え、琵琶湖へ響き渡るような長い音だった。
僧兵たちが一斉に動き出す。
松明の列がゆっくりと山道へ向かい、
鉄と木と布がすれ合う音が、川のように続いていく。
先頭の僧兵が一歩、また一歩と山道の闇に消える。
その後ろから、百人、千人、万。
二万の列は果てしなく続き、比叡山を下る火の蛇となった。
良淳は最後に山門へ一礼し、ゆっくりと歩み出した。
未明の空は、まだ黒い。
だが東の端が僅かに赤みを帯びていた。
夏の夜の静寂が破られ、
京都の町に、長い一日の始まりを告げようとしていた。




