第八十八話 月下の氷華、乞食衆を凍らす
――天文五年、八月三日未明。
都の夜は、不穏な静けさに包まれていた。
遠い比叡の山からは風が吹き下ろし、湿った土と雨の気配を運んでくる。まだ火の手こそ上がってはいないが、空気の底には鉄の味が混じり、誰もが何かが始まることを感じていた。
月は半ば欠け、黒雲の切れ間から青白い光を落とす。その光の下、八つの影が地を這っていた。どれも乞食。痩せこけ、衣は泥にまみれ、ただその目だけが獣のように光っている。
彼らは、かつて法華宗の炊き出しで梵寸という少年に叩きのめされた大人の乞食たちである。今は復讐の機会を伺い、血と欲にまみれた笑みを浮かべていた。
「おうおう……覚えてるか、小僧ども。あの時は世話になったなぁ」
頭目の男が、下卑た笑みを浮かべながら唾を吐く。
「命が惜しけりゃ、女どもを置いていけ。俺たち乞食衆は法華宗に味方してる身よ。その間、こいつらに少し慰めてもらうとするか」
遊女たちの間に悲鳴が上がった。
「いやあああっ!」
怯えた女たちが後ずさる。
その声を背に、ひとりの少年が立ち上がった。まだ幼さの残る瞳に、凛とした光が宿っている。
「お前たちは、俺の仲間に指一本触れさせない。今すぐ帰れ!」
小吉の声が夜気を切り裂いた。胸の奥で、何かが静かに燃え上がる。梵寸に教わった呼吸、あの一瞬の無心――それが彼の中で真境へと昇華していた。
だが乞食たちは、ただニヤリと口角を上げるだけだった。
「そんな口をきいていいのか、小僧。こいつが目に入らねえか?」
錆びついたナタを抜き、光を反射させる。ほかの七人も次々と武器を構え、月光が刃を白く照らした。
女たちの悲鳴が広がるなか、震える手で妙婆を支えていた華が、ゆっくりと立ち上がった。
その顔に、もう怯えの影はない。
「……よく考えたら、にいにの殺気に比べたら怖くもなんともないよね」
唇の端が上がり、子供らしい笑みを浮かべる。
「――あはははっ」
小吉と目が合った。二人はふっと笑い合い、緊張がほどけていく。
「確かに。師匠の殺気ときたら、恐怖で震えが止まらなくなって……なんでこんなやつら怖がってたんだろうな……ははは」
その笑いが、逆に乞食衆の胸をざわつかせた。
八人の男たちは一瞬、理解できぬものを見たように呆然と立ち尽くす。
「この小僧ども……俺たちを舐めやがって!」
怒声とともに、男たちの目の色が変わった。
「婆と餓鬼どもは斬れ! 女は好きにしろ!」
下卑た叫びが夜空に響く。血と欲の匂いが濃くなる。
「乞食たち、待ちなさい!」
お梅が前に出てきて、目を三角にして叫んだ。
「わたしたちを誰だと思って……な、なにするのさ小吉!」
小吉はお梅の前に立ちふさがり、静かに押し戻した。
「まあまあ、お梅さん。ここは俺たちに任せてください」
「小吉、駄目だよ! 子供が――!」
「平気です。俺より華の方がずっと強いですから。なんせ華は、二段階の夜叉です」
少年の口元には悔しげな笑みが浮かんでいた。華の成長を誇らしく思いながらも、自分が守られる立場になることに、どこか寂しさを感じていた。
乞食たちは、入れ墨のある少女を見て嘲笑した。
「はっ、入れ墨の小娘が俺たちに勝てると思うのか。罪人の娘が生意気言いやがって!」
彼らは女と子供、老いた婆しかいない状況に、完全な勝利を確信していた。ナタを振り上げ、月光に閃かせる。
その瞬間――。
華の瞳が氷のように冷たく光った。
風が止まり、夜の空気が凍りつく。
「――月呪ノ業・第一ノ型、霜礫飛翔」
少女の声とともに、氷の礫が連弾のように宙を舞った。月光を反射してきらめくそれは、まるで天の涙が降るようだった。
礫は乞食たちの間を正確にすり抜け、肌をかすめる。触れた衣が白く凍り、音もなく固まっていく。
「うおっ……ま、まさかこの餓鬼、真境に至ってやがるのか!」
「な、なんだこれ! 動けねぇ!」
「冷てぇっ、着物が凍って――うわっ!」
男たちは凍りついた衣を引き裂こうと必死にもがく。だが足も腕も言うことをきかず、まるで氷像のようにその場に縫いとめられていた。
華は、氷の中で震える彼らに一瞥をくれるだけだった。
本気で撃てば命はなかった。だが、少女の優しさが手を止めていた。
彼女の氷は、憎しみではなく、守るための力であった。
「た、助けてくれ! 冷たい、凍る、もう動けねぇ!」
乞食たちの悲鳴が夜気に溶けて消える。
華は手をパンパンと軽く叩いた。氷の粉が月光に散り、雪のように美しく舞う。
「華、あんた……強くなったねぇ」
お梅が呆然とつぶやいた。
その声には驚きと、どこか母のような誇りが混じっていた。
「病が治ったと思ったら、今度は夜叉だって? いったい、あんたたちは何者なんだい……」
妙婆が目を細め、まるで夢でも見ているように二人を見つめる。
長年、遊郭を仕切ってきた老女の目に、確かな希望が宿っていた。
「いっぱい修行して、強くなったの!」
華が胸を張る。
「これからは、華が皆を守るね!」
「俺も、ちゃんと守るよ」
小吉も笑った。彼の胸にあったのは恐れではなく、誇りだった。もう、誰かに守られるだけの子供ではない。
――夜風が吹いた。
炎の光が遠くに瞬き、山科の方角に新たな火柱が上がる。戦乱の夜は、確実に近づいていた。
それでも、子供たちの瞳は静かに輝いていた。
氷のように澄み、月のように冷たく、そして優しい光で。
こうして、天文法華の乱が本格的に始まる前夜、
華と小吉は、お梅たちとともに山科を脱し、都を背に新たな運命の道を歩み出したのだった。




