第八十七話 夜逃げの道、月下の乞食衆
「ちょっ、ちょっとあなたたち……なにをするのさ! 待って! ちょっと待って!」
夜更けの遊郭に、女の声が響いた。
灯籠の火が赤く揺れ、雨の気配を孕んだ風が通りを撫でていく。
遊郭の外で待ち構えていた華と小吉が、お梅を見つけるなり両脇をつかみ、必死に走り出した。
「お梅さん! 延暦寺の僧兵が山を降りて、法華宗と戦になるよ!」
小吉の息は荒く、声は震えていた。
だが、お梅は微笑んで肩をすくめる。
「なんだい、何事かと思ったよ。延暦寺と法華宗の喧嘩なんて、いつものことでしょ」
その余裕を見て、華が顔を曇らせる。
月光の下、彼女の瞳だけが鋭く光った。
「違うの。にいにから伝令がきたの! 比叡山から二万の僧兵が下りてくるって! 逃げなきゃ、都が焼ける!」
「そうだよ!」
小吉が力を込めて叫ぶ。
「俺、さっきまで比叡山の近くで見張ってたんだ! 薙刀持った僧兵が列をなしてた!」
言葉に嘘はなかった。二人の顔に浮かぶ焦燥は、子供の作り話とは違っていた。
「……その話、本当かい?」
お梅の声がかすれる。頬がわずかに青ざめた。
「本当さ! 俺がこの目で見たんだ!」
「信じてお梅さん! 都が燃えるの!」
二人の必死の訴えに、ついにお梅も悟ったように息を吐いた。
「……そりゃ、まずいね。皆を助けなきゃ。華たちはここで待ってな。すぐ戻るから」
お梅は袖を翻し、妙婆の部屋へ駆け込む。
程なくして、妙婆が大声を上げながら遊郭中を駆け回った。
男客たちは服を半ば着崩したまま外に飛び出し、遊女たちは慌てて荷を抱えて続く。
老女の判断は早かった。子供の噂ならともかく、梵寸の名が出た時点で、動かぬわけにはいかない。
「梵寸はどこに逃げろと言ってたんだい!」
妙婆が、鬼のような形相で華に詰め寄る。
「う、うん……にいには山科から近江方面に逃げろって……」
勢いに押されながらも、華はしっかりと答えた。
「師匠は、大津で六角の旗の下、すぐに商売を再開できるって!」
それを聞いた妙婆は頷き、遊女たちに鋭く命じる。
「皆! 山科に逃げるよ! 命が惜しけりゃついてきな!」
「はい!」
掛け声と共に、十五人の女たちが走り出した。
紅の衣が闇に揺れ、香の匂いが夜風に散る。
「華や、そんなに早く走れるようになったんだねぇ。婆は嬉しいよ」
息を切らしながらも、妙婆は笑った。
彼女は本当は、ずっとこの子らを気にかけていた。
お梅には、本人たちには内緒でと言い、おにぎりと茶を包ませ、「持っていっておやり」と言ったのも妙婆だった。
だが、老いた足は追いつけない。
月影の下、華は足を止め、妙婆を振り返る。
「妙婆、背中に乗って」
「こ、子供の背に乗るわけにゃ……いや、華は身長が伸びたねぇ。頼もうかの」
半年で華は背丈を一気に伸ばしていた。
神気を解放した副作用――それが彼女の成長を促していた。
「いいよ。軽いんだから」
華が膝を折ると、妙婆はそっと背に乗る。
その重みは、訓練で担ぐ石よりもはるかに軽かった。
その時だった。
「なんだ?……おい、あの入れ墨。どこかで見た顔だな」
闇の中、松明の光がちらついた。
道の先に、八人の影が立ち塞がる。
薄汚れた衣、錆びたナタ、歯の抜けた笑い。――武装乞食だ。
「法華宗の炊き出しでは世話になったな……うひひっ。あの時の強い小僧はいねぇようだな」
声を聞いた瞬間、華の背が震えた。
かつて梵寸が叩きのめした大人の乞食たち――乞食衆は法華宗に味方をすることに決め、寺院に向かっている所に遭遇してしまったのであった。
「命が惜しけりゃ、女どもを置いていけ」
「俺たちゃ法華宗の味方だ。その間に、女どもに相手をしてもらうぜ」
吐き出された言葉に、遊女たちの悲鳴が上がる。
「きゃあああああっ!」
遊女たちの恐怖の叫び声が闇に響いた。




