第八十六話 夜霧、三千を眠らす
天文五年七月三十日、丑満つ刻。
興福寺南大門の下、三千の僧兵は松明の赤光に照らされ、息を潜めていた。
白法衣の裾は夜露を吸い、槍の穂先は星明かりを鈍く返す。
沈黙は張りつめ、まるで山そのものが呼吸を止めたかのようであった。
「仏敵の法華を討て!」
別当・行賀の一喝が闇を裂いた瞬間、鬨の声が山峡を震わせた。
「おおおおおっ!」
鐘が鳴り終わるのを待たず、軍勢は奈良の都を滑るように発した。
誰ひとり、この夜が、後の歴史を深く変えることを知らない。
そして最後尾には、十五の影が紛れこんでいた。
星霜村の忍び――前鬼剛蓮、後鬼静雅、そしてその配下。
彼らの背負子に載るのは米俵ではない。
もっと重い、そして静かな何かであった。
◇◇◇
八月一日、寅の刻が終わる頃。
生駒山中腹の宝山寺には、冷えた霧が石段を這い昇っていた。
三千の僧兵の足音が山肌をうねり、法螺貝が胸底を震わせるように唸る。
ブオオオオオ……。
腹も鳴り、喉はひび割れる。
信仰はとっくに冷え、残ったのは飢えと苛立ちであった。
境内は瞬く間に炊場と化し、鉄釜三十余が火を噴いた。
薪は爆ぜ、白い湯気が月明かりに煙る。
「水だ! 聖天の霊水を早く引け!」
「急げ、米を割け!」
米俵が裂かれ、白米が月光の中で雪のように散った。
「一人一升! 粥にしろ!」
だが三千の腹を満たすには、三升の粥すら心許ない。
僧兵たちは木椀を抱え、獣の列となった。
湯気の向こうに立つ顔は、もはや祈りの徒ではなかった。
餓鬼であった。
◇◇◇
松の根方。
炊場の熱が届かぬ薄闇の中で、剛蓮は腕を組み釜の数を数えていた。
三十一釜。一釜に百五十人。十五人で十分。
その計算は、冷たく正確であった。
静雅が油紙の包みを差し出す。
「クサスギカズラの根だ。吉野で掘り、陰干しして粉にした」
剛蓮は鼻を寄せた。
湿り気を帯びた青い草の匂いがわずかに残るのみ。
「これで三千を落とせるか」
「根五匁で百人眠る。七十匁はある。足りぬことはない」
「味に癖は?」
「ない。味噌汁に溶けても気づかぬ。猫すら狂わせる匂いも抜けた」
剛蓮は一度だけ頷いた。
十五人の忍びは霧に紛れるように散った。
梵寸の里が鍛えた真境の身のこなし。影よりも静かであった。
釜の番をする僧兵の首筋を打つ音は、薪の爆ぜる音に紛れた。
白い粉は湯面に浮かぶ間もなく沈み、すぐに溶けた。
色も変わらず、香りも立たない。
ただ、ほんの刹那、草の香が風に溶けたような気がした。
◇◇◇
やがて味噌汁と薄粥が配られた。
僧兵たちは飢えを押さえきれず、獣のように掻き込んだ。
「熱い……」
「生き返る……」
最初に崩れたのは、先陣の若い僧だった。
椀を掴んだまま、まるで糸を切られたように前へ倒れた。
続いて、槍を杖にしていた者が膝をつき、鎧が石畳を叩いた。
鉄の音が波紋のように広がり始める。
「どうした!」
「毒か!」
「誰だ、何を――」
叫びはすぐに霧へ飲まれた。
眠りは疫病のごとく境内を覆っていく。
三千の僧兵が、ひとり、またひとりと地に伏した。
松明の炎は揺らぎ、倒れた者たちの吐息だけが白く夜気に漂った。
◇◇◇
剛蓮は焚き火越しに静かに境内を見渡した。
静雅が隣に立ち、低く言う。
「遅参は避けがたい。八月四日の合流は不可能だ」
「ああ」
「だが、これで京は焼かれずに済む」
静雅は小さく息を吐いた。
「継尊様の指示の通り、里では鉄と硫黄と木炭が山のように蓄えられている」
「マキシノも百挺。あの方の図面どおりに作れば、強力な兵器になるそうだ」
「数年もあれば、誰も及ばぬ部隊が整うと、仰られた」
剛蓮は焚き火の火粉を見つめた。火の粒は霧の中へ静かに消えた。
「……継尊様は、どこであの知識を得られたのだ」
「知らずともよい。我らは従うだけだ」
そのとき、遠くで雷丸が法螺貝をひと吹きした。
低く、短く――作戦終了の合図。
興福寺は眠りに落ちた。
三千の僧兵は夢の中で戦い、夢の中で倒れ、夢の中で救われた。
誰も知らぬ。
この夜、京都の都が炎に呑まれず済んだことを。
梵寸の願いは、ただ一つ。
――二度と、焼け落ちる京を見たくない。
生駒の霧は深く、夜明けはまだ遠かった。




