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乞食からはじめる、死に戻り甲賀録  作者: 怒破筋
第二章 天文法華の乱ーー燃えゆく京
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第八十五話 月下、桜の一太刀

 八月四日未明。都の空は黒く沈み、湿り気を帯びた風が山の影を撫でていた。

 その風には、焼けた鉄のような、どこか血の匂いめいた気配が混じっていた。夏の夜だというのに、肌の奥を冷やすほど張りつめている。


 京の北方。円城寺の僧兵三千が、山裾から都へと広がる平地に黒き波を描いていた。

 鉄甲がぎらりと月を返し、足並みのそろった兵たちの呼気が、地鳴りのように低く響く。


 その前に、吉岡派の旗が静かに揺れていた。

 わずか百五十。だが退く気配は微塵もない。旗は、夜に浮かぶ月のように淡く、静かだった。


 「……あの小僧め。厄介ごとを押しつけおって」

 吉岡直元はわずかに笑い、肩をすくめた。

 だがその眼には怒りよりも覚悟が燃えていた。


 「しかし、あやつには借りがある。逃げるなど、我が剣が許さぬ」


 乾いた土がざらりと舞った。列の奥、巨大な祈祷旗が風にのたうつ。

 その前に、円城寺の座主・覚秀が馬上に姿を現した。身にまとう法衣は月を吸い、黒々と揺れている。


 「吉岡派が……我らに立ち向かうか?」

 覚秀は低く問うた。


 「正道七武門の約定はどうした。まさか百ばかりで、拙僧ら三千を押しとどめるつもりか」

 僧兵の後列からどっと嘲りが湧いた。


 その瞬間――風が震え、夏には咲くはずのない花が、夜空にふわりと漂った。


 「……桜、だと……?」


 だれかが呟く。

 月光を背に、白髪の老人が歩み出た。衣の裾が風に揺れ、散った花がその足元にからむ。


 「愛洲移香斎……!」


 ざわめきは波のように広がった。

 愛洲移香斎――日ノ本の武人で、この名を聞けば、並ぶ者は塚原卜伝のみと言われる男。

 剣聖と恐れられる卜伝に対し、移香斎は“剣祖”と称された。


 「我ら愛洲門派は、吉岡派に与する。共に立つ」

 移香斎の声は、夜気を切り裂くほど凛としていた。


 背後に並ぶ百の弟子たちが、まるで一本の柱のように峙える。

 揺らぎもなく、恐れもない。


 覚秀の眉がわずかに上がった。

 「都で戦とは……あってはならぬ。愛洲殿、正道七武門は大名にも宗派にも与せぬ掟であろう」


 そこに答えたのは吉岡直元だった。


 「承知しておる。しかし宗派といえど、都の民を脅かすならば見過ごせぬ。それが我らの剣の理だ」

 その声音は鋼のように揺れず、聞く者の胸を打った。


 直元は覚秀の正面まで歩み、静かに名乗った。

 「わしは、将軍家剣術師範役、吉岡直元。足利義晴公の指南役を務める者だ」


 僧兵たちが息を呑んだ。


 「我らと戦うは、すなわち将軍家に刃を向けるに等しい。……覚秀殿、それでもなお戦うか?」


 覚秀は拳を握りしめた。

 円城寺三千の威信。退けば失われる。だが戦えば、京の均衡は崩れ、再び乱が燃え上がる。


 その葛藤は胸を裂くほどに深かった。


 移香斎が一歩、静かに進み出た。

 「覚秀殿。ここは武の道に則り、武で決すがよい」


 「武で……だと?」


 移香斎は弟子の名を呼んだ。

 「秀綱――前へ」


 月明かりの中から、若き剣士が歩み出る。

 細身、小柄。病弱と見紛うほどの身体。だが眼だけは澄み、迷いはなかった。


 吉岡直元が低く呟く。

 「……愛洲殿、この華奢な青年で良いのか?」


 「案ずるな。この者は我が誇りよ」


 覚秀は静かにうなずいた。

 「ならば、我が寺より円舜を出そう」


 その名が告げられると、僧兵がざわついた。

 円舜――円城寺十傑に名を連ねる猛僧。修羅場を越えた武の怪物。


 月が二人を照らしていた。

 空気がひとつ、深く震えた。


 円舜が低く笑う。

 「若き者よ。死んでも恨むなよ」


 秀綱はまっすぐに返した。

 「命を賭す覚悟は、師より学びました。恐れはござらぬ」


 その凛とした声音に、円舜は思わず胸の奥を震わせた。

 (……見事な青年よ)


 しかし次の瞬間には嘲りが表情に戻る。

 「所詮、虚弱な身よ!」


 大地を蹴る音が月下に炸裂した。

 円舜の薙刀が光を裂く。

 風が斬り裂かれ、夜が歪む。


 「どうだ!拙僧の連撃を凌いだ者はおらぬ!」


 その時――秀綱の丹田が淡く光を帯びた。


 「超人の道は心・技・体。そのすべてが揃い、死線を越えたとき……壁の向こうが見える」


 光は呼吸のように脈打ち、剣へと流れ込む。


 「桜花剣法・第一ノ型――桜初め」


 囁きにも似た声。

 剣先が静かに定まる。

 夜風がぴたりと止んだ。


 ひとひらの桜が剣先から舞い落ちた。

 それを合図に、淡い花びらが次々と虚空へ流れ出す。


 幻か、神の息吹か。

 円舜はその美に、一瞬、我を忘れた。


 ――その刹那。


 秀綱の影が、月を断ち切るように走った。


 踏み込みも音を消し、振りも風を置き去りにする。

 遅れて夜気が震え、花が舞い上がった。


 円舜の瞳が大きく見開かれたまま、薙刀が手から滑り落ちた。

 胸に走った痛みを、彼は理解できぬまま――


 「……美しい……」


 その呟きを最後に、円舜の身体は静かに崩れた。

 斬られたことすら気づけぬほどの速さだった。


 世界がしんと静まった。


 月光が秀綱の頬を照らし、整った顔立ちに老練な影を落とす。

 風が戻り、舞い上がった桜が、僧兵の流した血を優しく包んだ。


 愛洲移香斎が静かに言った。


 「これぞ、真の武よ」


 覚秀は動けなかった。

 しばし目を伏せ、やがて深々と頭を垂れた。


 「……見事なり。円城寺、これ以上の戦は避けよう」


 僧兵三千の槍が一斉に下ろされた。

 風だけが、戦場の残り火を撫でていた。


 移香斎は秀綱の肩に手を置く。

 「よくやった。お前はもう、剣を知る者だ。上泉秀綱よ」


 秀綱は静かに微笑んだ。

 その眼は、若者のものとは思えぬほど研ぎ澄まされていた。


 こうして、

 ――戦は、ひとりの青年の剣によって止まった。


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