第八十四話 風の行方を読む者
風が唸り、夜の大気を震わせていた。八月三日の真夜中、愛知川の沓掛は闇に沈みながらも、どこか張りつめた匂いを漂わせている。湿った草の香り、遠くから流れる水音、馬の嘶き――それらが混じり合い、戦の前触れのような重さを帯びていた。
梵寸は半刻、ただ一点を見つめて立ち続けていた。十二歳の体だが、その背筋には七十九年の老練が宿っている。闇を裂くようにして、三方向――田中口、栃木峠、塩津港――から早飛脚が次々と馬を飛ばしてきた。この場所は観音寺城への合流地である。
「来たか……」
かすかに呟き、梵寸は草影へと身を沈めた。
ひとり目の飛脚は気づきもせず馬脚を鳴らして通り過ぎる。その瞬間、梵寸の影が地を滑り、闇に溶けた。
「甲賀忍法第一ノ型・闇影潜行」
低く抑えた声が、夜気に吸い込まれた。
梵寸の姿は気配すら消え、風のように背後へ回り込む。飛脚は自分が落馬した理由すら分からぬまま、ふっと意識を手放した。風に揺れる草の音だけが、その場に残る。
同じ動きで二人、三人と続く。三つの袋を切り裂き、中の朱印の書状を抜き取った。
──浅井は兵を結集しつつあるも、なお北で足踏み。
三通すべてが同じ文面。
梵寸は目を伏せ、わずかに口元を引き結んだ。
「……定頼の話は虚構ばかりではなかったか。浅井が何かを仕掛けようとしていたのは確かじゃ。しかし――本当に浅井の足が止まっておるとは、定頼も知らなんだのか」
月は雲に隠れ、光が薄い。風が頬を撫でるたび、若い身体がかすかに震える。震えは寒さだけではなく、長い歳月の経験がもたらす焦燥に似た熱でもあった。
「ならば……許すしかあるまい」
梵寸は沓掛を離れ、露を散らして走り出した。松林を抜ける風が鋭く、土埃が舞い上がる。夜の街道は静まり返り、琵琶湖から運ばれる湿った匂いが衣に染み込む。
(瀬田の唐橋……まずは本願寺の動き、確かめねばなるまい)
足音は軽いが、その一歩一歩には七十九年分の策と迷いが宿っていた。
瀬田へ近づくにつれ、川沿いの空気が冷たく変わった。水面をなでる風は細く鋭く、心の奥へ入り込むようだ。
やがて、闇の向こうに折れた橋脚が浮かび上がった。
瀬田の唐橋――かつて人々が行き交った大橋は、いまは無残に崩れ落ち、水底に沈んでいる。向こう岸に続くはずの影は途切れ、本願寺の僧兵の姿も見えない。
梵寸は草むらへ身を伏せ、夜気を吸い込んだ。
(……やはり動いておらぬか)
川の手前では六角軍の弓隊が待機していた。弦を引く音、甲冑の擦れる気配。どれも張りつめているのに、どこか不安げな揺らぎが混じる。
彼らの眼差しは、まだ見ぬ敵に向けられているが、敵影はどこにもない。
風が川面を滑り、冷気が頬を刺した。
「浅井も……本願寺も、敵ではなかったか」
静かに息を吐く。
ようやく掴みかけた局面が、別の形を取り始めていることを梵寸は悟った。
(延暦寺さえ抑え込めば、法華宗は救われる。京も焼かれず、人々も死なずにすむ)
頭の中で駒が盤上を行き交う。
興福寺軍三千は、すでに睡眠薬によって遅参が決まっている。円城寺軍三千は、かつて恩を受けた者たちが足止めしてくれる算段。残るは延暦寺の本軍――ただ一つ。
(出撃したその刹那、都から見えるように火を放つ。それで戦は終わる……)
風が強くなった。
その風は熱ではなく、どこか戦を拒む冷ややかさを帯びている。
梵寸は夜空を仰いだ。雲に呑まれた月がぼんやりと形を歪め、闇はさらに深く落ちていく。
この風は、乱の始まりか。それとも――乱を鎮める兆しか。
胸の奥に浮かぶのは、妹・お梅の穏やかな笑顔だった。
そして死に戻る前、守れなかった日々の影が、静かに心を過ぎる。
(これで……お梅も、経心も、救われる)
幼い唇にわずかな笑みが浮かぶ。だが風がさらっていき、形を保てぬまま夜に溶けた。
瀬田の川風はなお荒れ、陣の焚き火が揺れ続ける。
観音寺へ吹く風は、疑念を含みながらも、確かに戦の未来を変えようとしていた。




