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乞食からはじめる、死に戻り甲賀忍び伝  作者: 怒破筋
第二章 天文法華の乱ーー燃えゆく京
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第八十二話 風鴉、観音寺を翔ける

 風が吹いていた。夏の山間を渡る湿り気を帯びた風が、訓練場の竹をざわめかせる。梵寸は、七十九年の経験を宿し、瞳を細めて少女――華の動きを見ていた。

 彼女の掌が氷を纏い、空気を裂く。土埃が舞い、葉が裂けるほどの気流。神技と呼ぶにふさわしい。

 梵寸は静かに頷くと、心の奥にわずかな安堵を覚えた。

(……よい。少しずつ、月呪ノ業の力を制御できるようになってきたな)


 次の瞬間――

 山風の流れが一変した。遠くから、地を蹴る音。神速で近づく気配がある。

 梵寸の眉がぴくりと動く。

(……この気配は……)


 土を蹴る足音が近づき、木々の隙間から一人の少年が飛び込んできた。

「師匠! 大変なことが起きました!」

 息を荒げた小吉である。衣は泥にまみれ、顔には焦りの色が浮かんでいた。


「これこれ、小吉よ。忍びはいかなる時も平常心を失ってはならぬ」

 梵寸の声音は静かでありながら、刀よりも鋭い。

 その言葉に小吉は我に返り、深く息を吸い込む。肺が焼けるような息苦しさを抑え、しばし瞼を閉じた。


「六角定頼の観音寺城に……兵が集まっています!」

 声には恐れと焦燥が混じる。小吉は梵寸の指示で、観音寺城の動向を見張っていたのである。


 その言葉に、梵寸の眉がわずかに動いた。だが表情は変わらぬ。

「……なるほど。これは、直接話を聞かねばならぬな」

 静かに告げる声音には、長年の戦と裏切りを見てきた者の冷たさがあった。


「小吉と華は、座禅を続けよ。六角定頼には、わしが話をつける。――場合によっては、定頼の首が胴と別れるかもしれぬな」


 淡々と放たれたその言葉に、小吉は全身を震わせた。

 それは恐怖というより、本能の警鐘だった。

(あれ……? なんで、俺……震えてるんだ……)

 梵寸の周囲の空気が、氷のように張り詰めている。甲賀衆の惣領だった魂から溢れる殺気――それは、生き延びてきた戦鬼のものだった。


 風が止み、蝉の声が遠ざかる。梵寸はすっと息を吐くと、足を踏み出した。


 ――甲賀忍法第三ノ型・風鴉神速。


 足裏から風が生まれる。大地を蹴ると同時に姿が霞み、残像すら残らぬ。

 一陣の黒風が山を抜け、観音寺城へ向かっていった。


 月が昇る頃、梵寸は城門近くにいた。

 夜霧が薄く漂い、灯籠の火が揺れている。彼は黒面を被り、風の影となって石垣を登る。

 甲賀の陣法は要らぬ。彼にとって、忍び込むことは呼吸と同じこと。


 屋根裏に身を滑り込ませたとき、かすかな殺気を感じた。

 望月悠馬――二十歳の若き甲賀忍びが、ひとりで警戒に立っていた。


 梵寸は音もなく背後に立つ。

「今度は怠けず任務をしておるようだの」


 その声に悠馬はびくりと体を震わせた。

 無音。いつの間にか、真後ろに立っていた。

 驚きで目を見開くが、しかし声は出さぬ。


「……あんたか。今夜は確実に来ると思ってたが……まさか気配もなく後ろ取られるとは……くそっ」

 悔しげに唇を噛む。だが忍びは、実力の差を認めることこそ礼儀である。


「通っていい。あの望月出雲ーー迅雷でも止められなかった。誰があんたを止められるってんだ」

 吐き捨てるように言いながらも、その声には敬意があった。


「うむ。訓練と任務、怠けるでないぞ」

 梵寸は短く告げた。

 ――この青年が、数十年後、惣領となった自分を支える柱となる。

 死に戻った梵寸には、その未来が見えていた。だからこそ、叱咤ではなく助言を残す。


「おい! なんなんだよ。甲賀衆の俺に怠けるなって……あんたには関係ねぇだろ!」

 若さゆえの反発。だが、梵寸は微笑んだ。懐かしい仲間に再び会えたような温もりを感じながら。


 彼は屋根裏の板を押し上げ、音もなく六角定頼の寝所に降り立った。


 ――静寂。

 六角定頼は、すでに起きていた。正座をし、身を正して梵寸を待つ。蝋燭の炎がわずかに揺れ、その光が二人の影を畳に映す。


「無音殿か。今宵は必ず来ると思っていた。……まぁ、一献どうだ」

 六角は盃を取り出し、酒を注ぐ。その手の震えは、恐れか、それとも覚悟か。


「無音殿ほどの者ならば、不毒体躯であろう。毒など恐れるに足りぬ」

 笑みを含んだ声音。しかしその裏には、試すような響きがあった。


「うむ」

 梵寸は短く応じ、盃を受け取ると、酒をぐいと飲み干した。

 ――冷たい。だが舌の奥に、かすかな鉄の味。

 彼は盃を床に置き、音を立てた。タン、と乾いた響きが夜を裂く。


「それで……どういうことなのだ。兵を召集するとは、わしとの約定を破るつもりか。それとも――わしを侮っておるのか」


 その声が放たれた瞬間、室内の空気が変わった。

 梵寸の全身から、目に見えぬ圧が溢れ出す。

 天境――第六段階の殺気。

 ただの威圧ではない。殺意そのものが実体を持ち、刃となって押し寄せた。


 六角定頼は、堪え切れず体を震わせ、唇を青ざめさせた。

「ま……まて……待ってくれ……は……話を、聞いてくれ……」

 その声はかすれ、言葉の形をなさない。胃が痙攣し、彼は畳の上に吐いた。酒と胆汁の混じる音が、異様に静かな夜に響く。


 屋根裏から、鈍い音がした。

「ぐわっ!」

 悠馬が、梵寸の殺気に耐えきれず落下したのだ。


 梵寸は目を細め、ただ一言。

「次に話を誤れば――六角定頼。貴殿の首と胴は、永遠に別れるであろう」


 その声は静かで、だが確実に命を断つ者のそれだった。


 月が雲間から顔を出し、畳に銀の光が差す。

 その光の中で、十二歳の少年の影は、戦国最強の忍び――甲賀衆の無音の影と重なっていた。




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