第八十話 月下の乞食と破戒の僧
風が吹いていた。
土埃が舞い、河川敷の草がざわめく。
七月が過ぎ、夜気にはすでに秋の匂いが混じっていた。
役小角の隠れ里ーー星霜村を離れ、梵寸たちは鴨川の河原に戻っていた。八月一日。時の流れは容赦がない。
鍛錬と探索を怠らず、彼らは「天文法華の乱」の火種を探していた。
中でも梵寸の頭を離れぬのは、六角定頼の影である。
狸のようにしたたかな男。約定があるとはいえ、信を置くには危うい。梵寸は人の噂に耳を澄ませ、夜な夜な動いた。
月が昇る。京の町は酒と欲の匂いに沈んでいた。
灯籠がゆらめく通りの先、遊郭の影に、ぼろを纏った乞食の姿がひとつ。
膝を抱え、かすれた声で呼びかける。
「……右や左の旦那様。哀れな乞食に、お恵みを……」
その眼差しは、物乞いのものではなかった。
闇の奥を見透かすような、冷ややかな光が宿っている。
やがて、金の刺繍がきらめく法衣を纏った僧が、若い遊女を連れて通りかかった。
肥えた腹を揺らし、酔いに赤らんだ顔には俗臭が満ちている。
「立派なお坊様……この哀れな乞食に、少しの施しを……」
梵寸の声は掠れていたが、その口調にはどこか挑発めいた響きがあった。
「何じゃ、この汚らしい餓鬼が! 退け、退け!」
僧が梵寸を足で蹴り飛ばした。
遊女は笑いを堪えきれず、袖で口を隠した。
「まあまあ、旦那様ったら、子供に当たってどうなさるの」
「ははっ、戯れよ。行くぞ、お菊」
軽蔑と笑いを残して、二人は遊郭の奥へと消えていった。
「子に足を上げるとは……僧の風上にも置けぬのう」
梵寸は蹴られた膝を軽く払うと、夜風の中で小さく笑った。
僧の法衣には、住職の印。
ならば――探る価値はある。
梵寸は、猫のように静かに立ち上がった。
月光を背に、瓦屋根へと舞い上がる。
黒い影が、闇に溶けた。
◇◇◇
遊郭の一室では、灯がゆらゆらと揺れていた。
酒の匂い、香の煙、女の笑い声。
それらが夜の湿気に混じり、甘い腐臭となって漂う。
「いよいよ法華宗と延暦寺の争いは避けられぬようじゃ」
僧――淫覚と呼ばれるその男は、盃を傾けながら笑う。
肥えた指に光る数珠。
その一粒一粒が、俗世の欲に染まって見えた。
「まあ、怖いわ。都はどうなるのでしょうねぇ」
お菊は色香を含ませて、僧の膝に身を預ける。
紅を引いた唇が、盃の縁をなぞった。
その天井裏。
薄闇の中で梵寸は息を潜めていた。
懐から小袋を取り出すと、口角をわずかに上げる。
(破戒の報い、少しばかり味わうがよい)
小袋の中には、芒硝。
無味無臭、水にも酒にも溶けやすく、わずかで腹を下す。
梵寸は粉を一つまみ、静かに僧の盃へと落とした。
さらり、と。音すら立てぬほどに。
下で淫覚が盃を持ち上げる。
「ん? 酒に……硫黄の匂いがするような……いや、酔いのせいか」
鼻をひくつかせたが、すぐに女の肌に目を戻した。
「まあ、気にせぬ。お菊よ、今宵はわしの功徳にあずかるがよい」
「いやですわ、淫覚様……そんなお顔で……」
笑い声が交わる。
夜が歪み、盃の中で月が砕けた。
その瞬間、淫覚の表情が固まる。
眉間に皺を寄せ、腹を押さえた。
「……う、ぐっ……腹が……! 何じゃ、これは!」
「淫覚様? どうなさいました!?」
お菊が駆け寄る。
だが僧は立ち上がれぬ。
額に脂汗を浮かべ、苦悶の声を漏らす。
「うおおおっ! 厠……厠はどこじゃ! 早う……!」
走り出そうとした瞬間、足がもつれた。
顔を真っ赤にし、布団の上でのたうつ。
そして――止めようのない音が響く。
ぶりぶりぶりっ。
闇の静寂を破る、情けない音だった。
「い、淫覚様!? ああっ、いやぁっ!」
お菊が悲鳴を上げる。
布団は見る間に汚れ、僧は息も絶え絶えに倒れ込んだ。
その惨状を、天井裏の影が静かに見下ろしていた。
(精神の柱たる者がこのざまか……道理で世は乱れる。魔王が笑うのも、無理はない)
梵寸の目に、一瞬だけ老成した光が宿る。
死に戻りの彼にとって、人の堕落など珍しくもない。
それでも、何かを壊さねば前に進めぬ己の運命が、胸の奥で軋んでいた。
やがて、影は音もなく立ち上がる。
月光の射す屋根裏を抜け、闇の路地へと降りた。
風が、ぼろ布の裾をはためかせる。
(まったく……あの面の引き攣りよう。ぬははは、忘れられぬ顔よ)
笑いを堪えながら、梵寸は夜の京を歩いた。
その背に、どこか寂しげな風が吹く。
闇に生き、闇に笑い、そしていつか――その闇に呑まれる者の風が。




