第八話 朝露に宿る神気と猪の香り
梵寸の丹田に、豆粒ほどの神気が宿った。拳ほどの大きさに育てば、阿修羅の奥義が使える。まだ先は遠いが、最優先で修行を続けねばならぬ。
半眼を開けると、空は薄紅に染まり、夜明けが近い。――こうして朝を迎えられること自体、過去をやり直す奇跡なのだと、梵寸は静かに噛みしめた。
最初の務めは妹・華の体力回復。山へ出て獲物を得、薬を作ること。朝の空気を胸いっぱいに吸い込み、梵寸は森へと足を運ぶ。
東山の森は朝露に濡れ、ひんやりと澄んでいた。木々の間をそっと滑るように歩き、梵寸は目を凝らす。すると視線の端で、小さな動きがあった――猪だ。
「……ここよ」
小声で呟き、呼吸と体のバランスを整える。体の重心を低くして一歩一歩慎重に近づき、瞬間、全身の動きをそろえて猪を制した。力任せではなく、感覚と集中の一撃であった。
背に担ぎ、家路を急ぐ。朝の光が木漏れ日となり、影を長く伸ばす。全身に心地よい緊張が残り、今日もまた成長の手応えを感じる。
家に着くと、まだ日の光は淡く残っていた。火を起こし、猪をさばいて焼く。香ばしい匂いが漂うと、背後で物音がした。振り返れば、お梅が立っていた。
お梅は薄い着物に素足、手には何もないが、目は好奇心に満ちている。
「ん? 朝から猪を焼いておるのか。香りがすごいね」
にやりと笑い、梵寸を見上げる。
梵寸は肩をすくめて微かに笑む。
「まだ始まったばかりだ。だが妹のために、これだけは成す」
その時、華がのそりと現れ、目を輝かせた。
「にいに、おはよう〜!良い香りがして早起きしちゃった!朝から猪肉だなんて、ご馳走だよ!」
「東山で捕ってきたものよ。焼けたゆえ食べるがよい。ほら、お梅さんも」
梵寸は串を二人に差し出す。華は嬉しそうに頬張り、笑顔を見せる。
お梅も横に座り、興味深げに匂いを嗅ぐ。
「ふふ……あんた、兄として立派ね。妹も元気になるってものだわ」
梵寸の胸が熱くなる。死に戻る前には見られなかった笑顔を、二人から同時に受け取ったのだ。
「それと、これも飲むがよい」
生姜湯に蜂蜜を加えたものを差し出すと、華は歓声を上げる。
「にいに、ありがとう! 甘くて美味しい!」
梵寸は心の中で決意する。
――肺の病が和らぐまで、毎日これを飲ませる。薬が出来るまで、妹を守るのだ。
お梅もそっと手伝い、串を並べたり火加減を見たりする。華とお梅が笑いながら口に運ぶたび、梵寸は手を休めず、料理の段取りを整える。朝の光の中、三人の影が長く伸び、森の静寂と共鳴しているかのようだった。
「今日は……この後、少し山の方へ行って薬草を集めるつもりだ」
梵寸がそう言うと、お梅は目を輝かせた。
「あんた薬草の知識もあるのかい!いつの間に勉強したのさ!」
梵寸は微かに笑みを返す。まだ幼い二人だが、助け合い、力を合わせることが何よりも大切だ。
朝餉を終え、華が満足そうに生姜湯を飲んでいる。いつも飢えていたので、死に戻り前には見たことがない光景だ。梵寸は冷たい朝露に足を濡らしつつも、心は温かく、今日という一日を無事に始められた喜びで満たされている。
今日もまた、守護と準備の一日が始まる。未来のために、妹のために、梵寸は小さな手を握りしめ、静かに歩みを進めた。




