第七十九話 小吉の戦い――獅子神光、山を駆ける
四月の吉野は、若葉の香りが濃い。雨上がりの湿り気がまだ森の奥に溜まり、風が吹くたび、土の匂いがかすかに揺れた。
そのただ中――十一歳の小吉の身体が、白炎のように弾けた。
光が夜の帳を押し返す。肌を刺す神気が、山の空気を震わせた。
それは、古より達人の奥義と語られる
境地――「獅子神光」
乞食の身から這い上がった少年が、今まさにそれを現実にしている。
崖上で、大熊が唸り声を上げた。
「グォオオオッ!」
巨体が光に怯み、顔を腕で覆っただけで地面が軋む。
夜風がざわめき、月光が土埃を金の粉のように浮かび上がらせた。
小吉は震える喉を押し開くように声を吐いた。
「……今だ」
短刀が月を受けて冷たく輝く。足が地を蹴ると、影が光とともに裂けた。
「甲賀忍法――第一ノ型、風裂迅刃!」
風が裂けた。
一瞬、小吉の姿は、人ではなく嵐そのものだった。
熊がたじろいだ、その刹那――
短刀が喉元をかすめた。
風の刃が奔る。
巨体が、首と胴に分かれて崩れた。
赤黒い血が土に吸い込まれていく音だけが、森に落ちた。
小吉の膝が震えた。胸が焼けるように痛い。
息を吸うたび、肺が熱を漏らす。
「……はぁ、はぁ……」
白光に染まった手を見下ろし、少年は呟いた。
「……や、やった……!」
震えが歓喜に変わる。
天へ腕を突き上げ、山に勝鬨が響いた。
その光景を、木の上から梵寸が見下ろしていた。
十二歳の身体に七十九年の修羅を宿す男は、珍しく頬を緩めた。
「ついに獅子神光か……。だがまだ甘いの。言うたはずじゃぞ、小吉。忍びは正面から戦う愚か者ではない、とな。……まあ、今日だけは叱らぬとしよう」
老忍びの声は厳しさと慈しみを併せ持っていた。
小吉は大熊の死骸を担ぎ、森を駆け下りた。
地を裂くような速さ――真境の術、「神速」。
草が薙ぎ倒され、夜の森が裂けた。
月光が枝を照らし、小道に斑の影が揺れた。
少年の胸に、熱い決意が満ちる。
(親父……母さん……お福……今度こそ俺は守る。逃げるだけの俺では終わらない)
◇◇◇
隠れ里の灯が見え始める頃、小吉は大熊を下ろす暇もなく駆け込んだ。
「師匠! 俺、やり遂げた!」
香の匂いが漂う書斎。
梵寸は静かに座し、小吉を一瞥して頷いた。
「……ようやった、小吉」
その声音には老忍びの喜びが滲んでいた。
だが次の瞬間――目が赤く染まり、鋭く細まる。
「――だが、地獄はこれからじゃ」
その言葉だけで、小吉の背筋に冷たいものが走る。
「う、うわ……」
「もう、にいに。さっきまで嬉しそうだったのに」
襖の影から華が顔を出す。幼い笑顔は緊張をほどいた。
「嘘だろ……!」
小吉が顔を赤らめると、部屋の奥から雷丸が駆け寄ってきた。
「よくやった、小吉! それでこそ拙僧の好敵手よ!」
朗らかな声が部屋に響く。
一方、霞はその熱気に飲まれず、まっすぐ冷静に少年を見た。
「継尊様のお命の盾というには……まだ、脆い」
冷ややかな声。その正しさが小吉の胸を刺す。
「うっ……」
喜びの余韻が一瞬でしぼんだ。
忍びの道は、喜びの先に地獄が続く。
そのとき――
襖が勢いよく開いた。
「小吉様! ご無事で……! 拙尼は心配で、夜も眠れず……ううっ!」
清峰が泣きながら小吉の胸へ飛び込んだ。
「清峰……ありがとな」
小吉は照れながらもその肩を支える。
梵寸たちは柔らかい目で二人を見つめた。
今日だけは、ご褒美に許してやる雰囲気となっていた。明日から始まるのは、さらに厳しい地獄の修行であるから。
(ああ……俺をこんなふうに心から案じるのは清峰だけだ。寄りかかっても……誰も責めないだろ)
弱い思いが胸に浮かんだが、小吉は気づかぬふりをした。
やがて梵寸が立ち上がる。
その眼差しは、少年を見ておらず――もっと広い「戦」を見ていた。
「これで策は整った。剛蓮、静雅、そして里の者ども。一人でも多く境地へ引き上げるのじゃ」
「はっ、継尊様。あとは拙僧らにお任せを」
剛蓮が大きく頷く。静雅も静かに頭を垂れた。
梵寸は薄く笑う。
その笑みには冷たい覚悟が宿っていた。
「――運命の八月四日。天文法華の乱。この血風を、止める」
獅子神光を放った少年の夜は、こうして新たな地獄の幕開けとなった。




