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乞食からはじめる、死に戻り甲賀忍び伝  作者: 怒破筋
第二章 天文法華の乱ーー燃えゆく京
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第七十八話 小吉の戦い——熊牙に咲く、最初の咆哮

六月の吉野は、雨を孕んだ風がよく吹く。湿った土の匂いが鼻を刺し、枝葉をわずかに揺らしては、黒々とした森の奥へと溶けていった。


十一歳の小吉は、その風の中に立っていた。細い肩に、短刀の鞘が冷たく触れる。梵寸から切腹用に預かったものだ。もし熊狩りに失敗し、逃げ場を失ったとき、己で腹を裂けという意味だった。


山の主である巨熊を一頭、ただ一人で狩る――。

それは忍びとして生きる道を歩むための、最初の試練だった。


森の奥は、昼でも薄暗い。朽ちた枝を踏めば、乾いた音が響く。小吉は音を殺すため、梵寸に教わった歩法を反芻しながら、一歩ずつ慎重に進んでいく。


数日後、ついに熊と思われる痕跡を発見する。


(……匂いが、濃い)


熊は湿った風の中でも、独特の生臭さを残す。梵寸が教えてくれた通りだ。岩肌に残る爪痕を指先でなぞると、まだ乾ききっていない。巣は近い。


小吉は喉を鳴らす。怖い。指先が震える。だが、その震えを口で数えて抑え、息を整えた。


(強くなるんだ。あの日の俺みたいに、何もできずに終わるのは……もう嫌だ)


1532年――山科本願寺の戦い。

炎に包まれる街並み。

瓦礫の中で家族が倒れていく光景。

泣き叫んでも、手を伸ばしても、届かなかった。


裕福な商人の息子として生きていたはずの自分は、一夜で乞食に堕ちた。

梵寸と華がいなければ、今ごろ道端で朽ちていたかもしれない。


(だから、俺は……)


拳を握ると、湿った土が掌に張りついた。


やがて、小吉の目が一つの巨大な影を捉える。


熊だった。吉野の主と呼ばれる大熊。背丈は大人二人を並べたほどもある。鼻息は荒く、喉奥から響く唸りは地鳴りのようだった。


梵寸が言っていた。

「忍びで正面から戦う者は、自負心が強いか愚か者である」と。


仕掛けるなら、熊が巣を出て腹を満たそうとするとき――その背を突くのが上策だ。


小吉は体中に土を塗り、人間の臭いを消した。そして太い木の上に身を潜め、息を殺した。風が吹く。木々が軋む。


時間が溶けていく。汗が首筋をつたい、心臓の鼓動だけが大きく響いていた。


次の日に熊が動いた。


重たい足音。苔を踏みしめる湿った音。

その瞬間、小吉は両手で短刀を握りしめた。


(今だ!)


木の上から飛び降り、刃を熊の首筋へと突き立てる――はずだった。


しかし、大熊は本能で察知した。巨体をひるがえし、小吉の刃は厚い皮膚をかすめただけで弾かれた。


鈍い衝撃が腕を伝い、体勢が崩れる。


(まずい……!)


本来ならすぐに逃げ、次の機会を待つべきだった。


「グォオオオオオオオオオオ!」


だが、熊の咆哮が小吉の胸を打ち抜いた。獰猛な威圧感に、思考が凍りつく。


熊の目は血のように赤い。

牙が月光を反射し、濡れた唇からは涎が滴る。


小吉の体は、知らぬ間に腰を落とし、正面から構えていた。


――忍びとして、最も愚かな選択であった。


大熊が地を蹴った。

衝撃で土煙が舞い、小吉の頬を打った。


「来いよ……ッ!」


震える声で、少年は言った。


大木を盾にしながら、小吉は刃を振る。熊の爪を避け、その腕を切り裂く。血が飛び、温かい滴が頬にかかる。


梵寸との訓練の日々が脳裏をよぎる。

泥の中で何度も転がされ、息が切れても構えを崩すなと怒鳴られた。

華の笑い声。あの声が、背中を押していた。


だが、大熊は怒った。


大木を前脚で薙ぎ払い、小吉ごと吹き飛ばす。

左頬から胸をかすめた爪が、皮膚を裂き、血が噴き出した。


「……ッぐ……! ゲホッ、ゲホッ」


体が地面を転がり、肺の奥に土が入り込む。


大熊が追ってきた。

その牙は、爪よりもはるかに恐ろしいと梵寸は言っていた。噛みつかれれば、骨ごと砕かれる。


その言葉を思い出したときには、すでに肩に熊の牙が突き刺さっていた。


肉が裂ける音が、耳に鮮やかに響く。

激痛が全身を貫き、息が喉に張りついた。


(痛い……! 死ぬのか、俺は……)


血が、あたたかい血が地面に滲む。

熊は勝利を確信したように舌なめずりをし、獲物が逃げぬと見て、ゆっくりと近づいてきた。


その口が、大きく開かれる。

喉を噛み砕くために。


(俺は……また何も守れないのか……)


あの日と同じだ。

家族が炎の中で消えていくときも、ただ立ち尽くすしかできなかった。


(子供だから仕方ない? ……違う!)


怒りが湧いた。

自分に対して。弱さに対して。


胸の奥に溜め込んでいた泥が、一気に吹き飛ぶようだった。


「う……うおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!!」


森が震えた。

少年の叫びは、夜の闇を裂く咆哮だった。


熊が一瞬、後ずさる。

その隙に、小吉の丹田から光が爆ぜた。獅子神光であった。


温かい。だが燃えるような力。

これまでの小吉は、優しさゆえに刃を本当に突き立てることができなかった。

だが今、怒りと悔しさがその優しさを超えた。


神気――それは忍びにとって、生死を分かつ境界。

小吉の小さな体に宿ったそれは、まるで獣の咆哮そのものだった。


血に濡れた肩を押さえながら、小吉は立ち上がった。

足は震えている。

だが、瞳には恐怖よりも、確かな光が宿っていた。


熊の喉奥から、低いうなりが響く。

次の瞬間、再び巨体が襲いかかってきた。


小吉は真正面から、その牙に刃を突き上げた。


風が鳴る。

月が照らす。

血が舞い、森の奥で夜鳥が一斉に飛び立った。


(俺は、もう逃げない――)


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