第七十七話 小吉の戦い —— 山の主を討て、命を賭して
星霜村の朝は霧に包まれていた。湿った風が竹を揺らし、葉がかすかに鳴る。梵寸の稽古場では誰も声を張らず、呼吸と足音だけが静かに響いていた。その静けさは、刀よりも鋭い緊張を孕んでいる。
「……また、山の主に襲われた村があるらしいな」
梵寸は箸を止め、静雅に問うた。
「北の雀尊村が襲われました。かなりの被害で、死者は五名もおります」
静雅は言葉を選び、眉を寄せる。数日前、この里も同じ熊に襲われていた。そこを梵寸に救われていたのであった。
「聖なる熊だと恐れて討てぬでは、村は守れぬ」
梵寸の目が光を帯びる。静雅はそっと頷いた。
◇◇◇
外では弟子たちが修行に励む。だがその輪の中に、一人だけ焦げた顔で立つ少年がいた。小吉だ。木柱に拳を打ちつけるたび、力が抜けていく。届きそうで届かない、そのもどかしさが痛い。
「なんでだよ……何で俺だけ悟れねぇんだ!」
拳が木を裂き、血が滲む。
「小吉、焦るなってば」
梵寸の妹、華が駆け寄り、震える手をそっと拭う。
「小吉様、もう十分です。そんなに自分を責めないでください」
修行仲間の清峯が穏やかに声をかける。清峯はかつて梵寸の厳しさに心折れそうなところを、小吉の助けで耐え抜いた。だからこそ、彼の苦しみをよく知っている。
「みんなは“獅子神光”ってすぐ開くのに……俺だけ何も見えねぇ」
小吉の声には、諦めにも似た焦りが混じる。
その姿を黙ってみていた梵寸が歩み寄り、肩に手を置く。
「焦るな、小吉。道はいくつもある」
「そんな悠長なこと言ってられねぇ、師匠」
小吉は唇を噛む。
「もう限界なんだ。才能がないなら、どうすればいい?」
梵寸の声が、稽古場に低く落ちる。
「強くなりたくば、死を見よ」
その一語に場が凍る。弟子たちの息が一斉に止まって、梵寸を見た。
「死……?」と誰かが囁く。
「前に言ったであろう。我が弟子たる者、強くなるか、……死ぬか。どちらかだ」
梵寸の声は静かだが重い。
「小吉、一度、生死の狭間に臨んでみるか」
小吉は師の瞳を見返す。そこには迷いはない。
「俺は……強くなりたい」
その一言が、場を焔のように照らした。
清峯が飛びつくように駆け寄り、手を握る。
「小吉様! もう十分です! そんなに自分を責めないで!」
華は梵寸の腕に触れ、声を上げる。
「にいに、やり過ぎだよ! ねえ! 小吉は家族だよ!」
だが小吉は清峰の手をそっと押しのける。
「離せ、清峯。俺はもう、後ろを見ねぇ。進むしかねぇんだ」
彼の目に過去の影が走る。――1532年、山科本願寺。火と崩壊。叫び。両親と妹が炎に呑まれた夜。生き残ったのは小吉ただ一人。乞食として路地を彷徨い、そこで梵寸と華に拾われた。失った日常と、得た絆が彼を形作っているのだ。
「俺を拾ってくれたのは、師匠だ。だから……」小吉は顔を上げる。
「俺は逃げない。強くなれねぇなら、死んだ方がましだ」
梵寸の瞳が細くなる。やがて腰の短刀を抜き、月明かりにかざす。
「よかろう。ならば命じる。北の山を荒らす熊――山の主を討て。討てぬときは、その刃で腹を裂き果てよ」
「なっ……」
「継尊様、それは!」
清峯が叫ぶ。華も梵寸の腕をつかんで抗議する。
「にいに、そんなの嫌だよ!」
梵寸は振り向かぬ。声はさらに冷たく、しかし揺るがない。
「この試練を越えられぬ者に、忍びの名を残す資格はない。生きて戻れば英雄、果てれば修験の礎。これが掟だ」
清峯が涙ぐむ。
「私も行きます! 小吉様を一人で行かせるなんて――」
「駄目だ、清峯」小吉が制す。声は静かだが堅い。
「これは俺の戦だ。誰にも邪魔はさせねぇ。必ず帰る」
梵寸は短刀を差し出す。刃の冷たさが、小吉の掌に伝わる。場の空気が軋むように重い。
「この刃で熊を討て。討てぬなら、この刃で腹を裂け」
小吉は膝をつき、両手で短刀を受け取る。
「承知しました、師匠」
声は震えているが、その震えは覚悟の光を帯びていた。
霧の向こう、夜の山が低く唸る。遠くで熊の咆哮が響き、風が竹を鳴らす。誰も言葉を続けなかった。ただ、決意の匂いだけが夜に残った。
「行け、小吉。生きて戻れ。八月を迎えるまでに答えを持ち帰れ」
梵寸の声はそう告げると、黙って背を向けた。
清峯は袖を握りしめ、嗚咽する。華は目を潤ませながら力なく笑う。
「小吉なら、できるよ。生きて帰ってきてね」
少年は微笑んで霧の中へ歩を進めた。月が雲間から一瞬顔を出し、その背中を白く照らす。夜は深く、山は生きている。遠くで熊の咆哮が再び轟き、村では誰かが小さく祈った。
――討つか、討たれるか。生か、死か。だが小吉の足はもう止まらない。梵寸はその背を見送り、ひとり呟いた。
「小吉よ……強くなれ。そして、わしと共に生きよう」
霧が吹き抜け、稽古場に静寂だけが戻った。




