表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
乞食からはじめる、死に戻り甲賀忍び伝  作者: 怒破筋
第二章 天文法華の乱ーー燃えゆく京
77/83

第七十七話 小吉の戦い —— 山の主を討て、命を賭して


星霜村の朝は霧に包まれていた。湿った風が竹を揺らし、葉がかすかに鳴る。梵寸の稽古場では誰も声を張らず、呼吸と足音だけが静かに響いていた。その静けさは、刀よりも鋭い緊張を孕んでいる。


「……また、山の主に襲われた村があるらしいな」

梵寸は箸を止め、静雅に問うた。


「北の雀尊村が襲われました。かなりの被害で、死者は五名もおります」

静雅は言葉を選び、眉を寄せる。数日前、この里も同じ熊に襲われていた。そこを梵寸に救われていたのであった。


「聖なる熊だと恐れて討てぬでは、村は守れぬ」

梵寸の目が光を帯びる。静雅はそっと頷いた。


◇◇◇


外では弟子たちが修行に励む。だがその輪の中に、一人だけ焦げた顔で立つ少年がいた。小吉だ。木柱に拳を打ちつけるたび、力が抜けていく。届きそうで届かない、そのもどかしさが痛い。


「なんでだよ……何で俺だけ悟れねぇんだ!」

拳が木を裂き、血が滲む。


「小吉、焦るなってば」

梵寸の妹、華が駆け寄り、震える手をそっと拭う。


「小吉様、もう十分です。そんなに自分を責めないでください」

修行仲間の清峯せいほうが穏やかに声をかける。清峯はかつて梵寸の厳しさに心折れそうなところを、小吉の助けで耐え抜いた。だからこそ、彼の苦しみをよく知っている。


「みんなは“獅子神光”ってすぐ開くのに……俺だけ何も見えねぇ」

小吉の声には、諦めにも似た焦りが混じる。


その姿を黙ってみていた梵寸が歩み寄り、肩に手を置く。

「焦るな、小吉。道はいくつもある」


「そんな悠長なこと言ってられねぇ、師匠」

小吉は唇を噛む。

「もう限界なんだ。才能がないなら、どうすればいい?」


梵寸の声が、稽古場に低く落ちる。

「強くなりたくば、死を見よ」


その一語に場が凍る。弟子たちの息が一斉に止まって、梵寸を見た。


「死……?」と誰かが囁く。


「前に言ったであろう。我が弟子たる者、強くなるか、……死ぬか。どちらかだ」

梵寸の声は静かだが重い。

「小吉、一度、生死の狭間に臨んでみるか」


小吉は師の瞳を見返す。そこには迷いはない。

「俺は……強くなりたい」

その一言が、場を焔のように照らした。


清峯が飛びつくように駆け寄り、手を握る。

「小吉様! もう十分です! そんなに自分を責めないで!」


華は梵寸の腕に触れ、声を上げる。

「にいに、やり過ぎだよ! ねえ! 小吉は家族だよ!」


だが小吉は清峰の手をそっと押しのける。

「離せ、清峯。俺はもう、後ろを見ねぇ。進むしかねぇんだ」


彼の目に過去の影が走る。――1532年、山科本願寺。火と崩壊。叫び。両親と妹が炎に呑まれた夜。生き残ったのは小吉ただ一人。乞食として路地を彷徨い、そこで梵寸と華に拾われた。失った日常と、得た絆が彼を形作っているのだ。


「俺を拾ってくれたのは、師匠だ。だから……」小吉は顔を上げる。

「俺は逃げない。強くなれねぇなら、死んだ方がましだ」


梵寸の瞳が細くなる。やがて腰の短刀を抜き、月明かりにかざす。

「よかろう。ならば命じる。北の山を荒らす熊――山の主を討て。討てぬときは、その刃で腹を裂き果てよ」


「なっ……」

「継尊様、それは!」

清峯が叫ぶ。華も梵寸の腕をつかんで抗議する。

「にいに、そんなの嫌だよ!」


梵寸は振り向かぬ。声はさらに冷たく、しかし揺るがない。

「この試練を越えられぬ者に、忍びの名を残す資格はない。生きて戻れば英雄、果てれば修験の礎。これが掟だ」


清峯が涙ぐむ。

「私も行きます! 小吉様を一人で行かせるなんて――」


「駄目だ、清峯」小吉が制す。声は静かだが堅い。

「これは俺の戦だ。誰にも邪魔はさせねぇ。必ず帰る」


梵寸は短刀を差し出す。刃の冷たさが、小吉の掌に伝わる。場の空気が軋むように重い。

「この刃で熊を討て。討てぬなら、この刃で腹を裂け」


小吉は膝をつき、両手で短刀を受け取る。

「承知しました、師匠」

声は震えているが、その震えは覚悟の光を帯びていた。


霧の向こう、夜の山が低く唸る。遠くで熊の咆哮が響き、風が竹を鳴らす。誰も言葉を続けなかった。ただ、決意の匂いだけが夜に残った。


「行け、小吉。生きて戻れ。八月を迎えるまでに答えを持ち帰れ」

梵寸の声はそう告げると、黙って背を向けた。


清峯は袖を握りしめ、嗚咽する。華は目を潤ませながら力なく笑う。

「小吉なら、できるよ。生きて帰ってきてね」


少年は微笑んで霧の中へ歩を進めた。月が雲間から一瞬顔を出し、その背中を白く照らす。夜は深く、山は生きている。遠くで熊の咆哮が再び轟き、村では誰かが小さく祈った。


――討つか、討たれるか。生か、死か。だが小吉の足はもう止まらない。梵寸はその背を見送り、ひとり呟いた。

「小吉よ……強くなれ。そして、わしと共に生きよう」


霧が吹き抜け、稽古場に静寂だけが戻った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ