第七十三話 焚き火の誓い、山を照らす星
――四月の山に、夜風が吹いていた。
春の冷気はまだ鋭く、焚き火の煙を撫でながら、谷間を静かに渡っていく。火の粉がひとつ、ふたつ、闇へ消えた。
囲むは七人。炎の明滅がその顔を照らし、影と光の狭間で息づいていた。
中央に座すは、十二歳の少年――梵寸。
だが、その眼差しに宿るのは、七十九の老忍の静かな光。
幾度の戦乱を潜り抜け、いまは「死に戻り」としてこの世に再び立つ。過ぎた命を悔い、再び巡り来た春を、彼はまるで運命の帳をめくるように見つめていた。
前鬼剛蓮、後鬼静雅――山を護る二人の宗主。
その子らである雷丸と霞。
そして、乞食の妹である華と弟子の小吉。
星霜村の修験者たちは、山気と煙の中に、張り詰めた祈りを宿していた。
「三千となると、星霜村の力だけで押し止めるのは難い」
梵寸の声は低く、しかし揺らがなかった。
火がぱちりと弾けるたび、その瞳は紅に染まり、老練な光を宿す。
「だが、兵は人。人は食を要す。興福寺の兵が都を目指すには数日を要しよう。その間に“食”で眠らせれば、足を止められる。やるなら――夜の闇を使う」
その言葉に、焚き火の赤が剛蓮の顔に影を落とす。
「……兵糧を狙うか」
彼の声は岩のように低く、風に溶けた。
梵寸は頷いた。
「そこで頼みたい。前鬼殿、後鬼殿――睡眠薬を作ってほしい。大量にだ。貴殿らの秘術と薬草の知見があれば、強力な薬を調えることができるはずだ」
沈黙が落ちる。
剛蓮は腕を組み、やがて瞑目した。焚き火の赤が彼の頬を照らし、皺の間で影が揺れる。
「里の存続、子らの命のためならば、我らは動く。だが……継尊様、なぜ法華宗に力を貸されるのですか?」
梵寸は火を見つめたまま、わずかに目を伏せた。
死に戻りの秘密は語れぬ。ただ、一言に真を込める。
「夢に、不動明王が現れた。『戦を止めよ』と。――夢告だと伝えよう。詳しい事情は伏せるが、貴殿らの力が必要だ。興福寺の兵糧を眠らせれば、援軍は京へ届かぬ。多くの命を救える」
静雅の袖がわずかに動いた。その横で雷丸が勢いよく手を挙げる。
「十五人、徴発される我らの者は後方に入ると聞いております! 炊事場に紛れ込めば、薬を混ぜるのは容易い!」
霞が微笑を浮かべた。
「支援部隊の中から攪乱するなら、兵站を崩せましょう。十五人で十分です」
梵寸は頷く。
「そのため、薬の量は多く要る。三千の兵の炊事に回るよう、複数の箇所へ仕込む。効き目は短時間で確実に――クサスギカズラを用いるのが良い」
剛蓮が唇を引き結び、静雅と視線を交わす。
やがて、重く頷いた。
「承知した。拙僧が引き受けよう。材料は山に多くある。決起の日までに、責任をもって調合いたす」
その言葉に呼応するように、焚き火が勢いを増した。炎が高く立ち昇り、赤が山肌を染める。
梵寸は深く息を吐き、穏やかに微笑んだ。
「それは良い。頼んだぞ、前鬼殿、後鬼殿」
雷丸が勢いよく立ち上がる。
「やるぞ! 継尊様のお役に立てる時が来たようです!」
霞も負けじと立ち上がる。
「いいえ、継尊様のお役に立つのは、この霞にございます!」
「はっ、霞。また継尊様に甘い顔をしておるな! この間も“心を込めて”薬草包みを結んでおったろ!」
「な、何を言うの雷丸! あれは礼儀です!」
霞の顔がぱっと赤く染まり、雷丸はにやにやと手を合わせる。
「ほぉ〜、“礼儀”ですか。拙僧には“毒見役”としての礼儀などなかったようで」
「うるさいっ!」
ごつん、と拳骨が雷丸の頭に落ちた。
「修験者が暴力とは……」
「修験尼だって拳骨くらいは使えるの!」
焚き火が笑いの光で揺れた。
華は目を丸くし、笑いをこらえる。
「にいに……あの二人、仲良しだね」
梵寸は苦笑を浮かべた。
「仲良しというより、兄妹喧嘩に近いな。――さて、甲賀に伝わる薬調の秘伝を授けよう。皆、注目せよ」
乾いた根と葉を取り出す梵寸。その手際は十二歳とは思えぬほど老練。
焚き火の光に薬草が透け、青い香気が漂う。
山の夜気と混ざり合い、どこか清らかな気配を帯びた。
雷丸が袋をひっくり返し、剛蓮が頭を抱えた。
「おい雷丸! クサスギカズラと似ておるからといって、カエンタケを混ぜるな! 死ぬぞ!」
「ひぇえっ!? す、すみませぬ父上! 見た目がそっくりで……拙僧はこの手の才がない」
「似ておるで済むか、愚か者! 毒と薬は紙一重ぞ!」
その横で霞は真剣に手を動かしていた。
だが時折、梵寸の横顔を見やる。
火の明かりが頬を照らし、静かな決意の光が瞳の奥に燃えている。
――どうか、命を削らないで。
心の底で、そう願わずにはいられなかった。
夜風が吹き抜け、火の粉が霞の髪をかすめた。
「継尊様……」
「うむ?」
「……どうか、危ないことはなさらぬように。貴方がいなくなれば、この山も、拙尼も、静かではいられません」
梵寸はわずかに目を見開き、やがて柔らかく笑んだ。
「心強いことを言ってくれるな、霞殿。だが、我らは皆で守るのだ。誰も欠けてはならぬ」
「……はい」
霞は頬を赤く染め小さく頷き、火の粉を見つめた。
彼女の頬に映る焚き火の赤は、まるで恋にも似た熱を帯びていた。
雷丸がまた口を挟む。
「おっと、霞。今度は“睡眠薬”じゃなく、“恋わずらい薬”でも調合中で?」
――ごつん。
再び拳骨が雷丸の頭に落ち、彼は夜空を仰いだ。
「いってぇ……修行より厳しい……」
華が笑いをこらえきれず、剛蓮も肩を震わせた。
静雅でさえ、口元にかすかな笑みを浮かべている。
焚き火が柔らかく揺れ、夜は次第に深まっていった。
やがて、七人は笑いの余韻を残したまま、それぞれの持ち場へと戻っていく。
月は高く、山の稜線を白く照らしていた。
風が松の梢を鳴らし、遠くで梟が一声、夜を裂いた。
――明日より始まるのは、戦ではない。
刀を振るうよりも過酷な、地獄の鍛錬である。
山に籠り、風を裂き、己を磨く。
食を断ち、眠りを削り、心を研ぎ澄ます日々が待っている。
星霜村の者にとって、それは生き延びるための唯一の道。
弱きが強きに挑むには、知恵と鍛錬しかないのだ。
焚き火の残り火がぱちりと弾け、夜風に散った。
梵寸は一人、闇に沈む谷を見つめる。
――あの日、死んで終わったはずの命。今度こそ、救うために使う。
胸の奥に宿るのは、恐れではなく、決意の炎だった。
月が照らす山々の彼方で、ひとつの星が瞬いた。
それはまるで、修羅を導く灯火のように。
そして山の夜は静かに、だが確実に――次なる試練の夜明けを告げていた。




