第七十ニ話 風の里、継がれし炎
――星霜の山神は沈黙した。
その静寂の中で、風だけが山を渡っていた。
血と焦げた木の匂いを含む夜気が、星霜村の屋根を撫でる。
梵寸は崩れた柵の前に立ち、熊が去った方角を見つめていた。
山神の怒りは鎮まった――だが、その沈黙が永遠ではないことを、彼は知っていた。
月が昇りはじめる。光は薄く、修験者たちの倒れた影を白く照らしていた。
「……皆、よく耐えた。恐れるな。神は怒っておらぬ」
その声に応じるように、誰かが小さく合掌した。涙をこぼす者もいた。
やがて焚き火が新たに点り、焦げた木の匂いが漂う。
山の主は去った――それだけで、人々にとっては奇跡だった。
華は兄の背を見上げ、小さく呟く。
「にいに……もう大丈夫だよね?」
「うむ。星霜村は、今日を境に甦る」
梵寸の声は穏やかで、しかしどこか遠かった。
(だが、山が静まればこそ……人の戦が動き出す)
その後、彼は自ら熊に倒された柵や屋根の修復を手伝い、怪我人の処置まで終えると、里人に告げた。
「皆、休め。話は夜にしよう」
◇◇◇
春の夜が降り、月が昇る。
星霜村の山あいには、囲炉裏の火が点々と灯った。
燃える薪が弾ける音が、疲れ切った心に安堵を与えていた。
梵寸は暗闇の尾を纏い、再び里の坂を下る。
見た目は十二歳だが、その足取りは甲賀の惣領のそれである。
夕餉の匂いが残る小道を進むと、やがて大広間のある建物に着いた。
そこは星霜村の者が集い、食事と祈りを共にする場所だった。
「継尊様──!」
「お帰りなさいませ、継尊様!」
歓声が広がる。
夜風に混じる人々の声は、先ほどまでの恐怖を拭い去るように温かかった。
前鬼剛蓮と後鬼静雅――二人の宗主が、雷丸と霞という若き後継者を伴って出迎える。
剛蓮の面は深く日焼けし、静雅の目には修験の鋭さが宿っていた。
雷丸と霞はまだ若い。
だが、その眼には、山を守る者の誇りが宿っていた。
梵寸は、後ろに控える二人の子をそっと前へ導いた。
「この娘が、わしの妹・華。そして、この者が弟子の小吉である」
焔が二人を照らす。
華の腕に走る入れ墨が、まるで炎の文様のように浮かび上がった。
村人たちは一瞬、息を呑む。
だが、誰一人として口に出す者はいなかった。
里の者は、彼女の身に刻まれた過去をすでに知っていたからだ。
梵寸が軽く肩を押す。
「……華、名乗れ」
「……華と申します」
頬を赤く染め、俯きながら言う声は、細く、だが確かな芯を持っていた。
後鬼静雅が一歩進み出る。
「華様、お初にお目にかかります。以後、お見知りおきを」
娘の霞も、母に倣って深く合掌し、穏やかに微笑んだ。
「お見知りおきを、華様」
村人たちが一斉に手を合わせ、声を揃える。
「お見知りおきを──!」
ただ一人、雷丸だけが顔を真っ赤にしていた。
「せ、拙僧も……お見知り置きを!」
意を決して前へ出た瞬間、華はぱっと梵寸の背中に隠れた。
梵寸は小さく息を吐き、赤く光る瞳を雷丸に向けた。
「……雷丸。華が気になるのか?」
「ひ、ひぃっ!」
赤い光が一閃し、雷丸は尻もちをつく。
それを見た剛蓮が肩を震わせて笑い、息子を諌めた。
「雷丸、調子に乗るでない。華様が美しいからと、目の色を変えるな」
「う、うるさい父上……」
雷丸はうなだれたが、華の頬はますます赤くなった。
梵寸は続けて小吉を紹介する。
「そして、これが弟子の小吉じゃ」
「お、俺……師匠に武芸を教わってます!」
頭を下げる小吉の仕草はぎこちなく、だが真剣だった。
雷丸がすぐに立ち直り、真面目な顔で合掌する。
「小吉どの、共に継尊様のお役に立てるよう、精進いたしましょうぞ」
「は、はいっ! お、お見知りおきを!」
笑いが広がる。
囲炉裏の火が弾け、湯気の向こうに人々の笑顔が霞んだ。
山菜の天麩羅、煮しめ、うぐいす餅――素朴な膳が並び、春の夜は穏やかに更けていく。
しかし、その穏やかさの底には、梵寸の胸に沈む影があった。
(この静けさも、長くは続かぬ……)
盃を傾けるたび、彼の目には遠い戦の火がよぎった。
宴の後、梵寸は宗主たちを呼び寄せ、囲炉裏の火が残る部屋に地図を広げた。
剛蓮、静雅、雷丸、霞、華、小吉――七つの影が、灯の揺れに染まる。
「継尊様、いかがなされます?」
剛蓮が低く問うた。声には慎重さと、予感が滲んでいた。
梵寸は黙して地図に指を置く。
その眼光は炎よりも深く燃え、声は静かに落ちた。
「話を端的にしよう。八月四日――延暦寺と法華宗との戦が起こる」
一瞬、部屋の空気が張り詰める。
「原因は三つの兵力の連携にある。
延暦寺と、六角定頼の軍との結びつきは、すでに断った。
残るは興福寺の三千。あの兵が京へ入れば、局面は決まる」
静雅のまつげがわずかに震えた。
剛蓮の眉間には深い皺が刻まれる。
「では、我らはどう動くおつもりで?」
梵寸は視線を上げ、炎の赤を瞳に映した。
「星霜村の兵力で、興福寺軍三千を壊滅させる」
火が爆ぜた。誰もが息を呑む。
「な、何とおっしゃいましたか?」静雅の声が揺れる。
「申した通りだ。里の者六十で、三千を止める」
雷丸が立ち上がった。
「六十で三千など、無謀にございます!」
彼の拳が震える。だが梵寸は動じなかった。
「無謀か。ならば問う。勝つ術がないと申すか?」
その静かな一言に、部屋の温度がさらに下がった。
剛蓮は唇を噛み、低く呟く。
「……継尊様、あまりに過酷にございます。六十の命を、どうか易々と……」
梵寸は目を閉じ、火の音に耳を傾けた。
「命は燃やすためにある。だが、無駄にはせぬ。
勝算はある。修験の道は火渡りにあり。己の業火を越えよ」
静雅は深く息を吐いた。雷丸も霞も、言葉を失っていた。
梵寸の瞳が再び炎に照らされる。
そこに迷いはなかった。
――その夜、星霜村の空には雲ひとつなかった。
風が梵寸の髪を揺らし、遠くで梟が鳴いた。
その音は、戦の呼び声のように静かで、確かだった。




