第七十一話 星霜の山神、沈黙す
風が吹いていた。春の匂いを含む冷気が山肌を撫で、土埃が陽光に揺らめいている。梵寸はその風の向こうに、古き神々の気配を感じていた。
甲賀を治めし惣領――望月出雲を倒し、六角定頼より不戦の約定を勝ち取ったのも束の間。なおも残る二つの戦力が、静かに牙を研いでいた。円城寺軍三千、そして興福寺の僧兵三千。その連携は延暦寺に通じる恐れがあり、今こそ策を巡らすべき時であった。
そのため梵寸は、修験の聖地――星霜村を目指していた。役小角ゆかりの地にして、天と地の境を守る隠れ里。興福寺の動向を探るにも、ここが最良の地と知っていた。
「にいに! 星霜村って、にいにが村長なの?」
先を駆ける華が、春風に髪をなびかせながら笑う。その声音は、幼き乞食の頃の無垢さを思い出させる。
「……まあ、似たようなものだ」
梵寸は軽く息を吐く。十二歳の声帯では、どうにも威厳が薄れる。それでも瞳には、七十九年を生きた男の光が宿っていた。
「はぁ……はぁ……ま、待ってぇえ! 二人とも速すぎるってばぁ!」
遅れて叫ぶ小吉の声が、山路に響く。
「ほっほっほ、置いていくぞ、小吉!」
「ま、待ってください師匠ぉお!」
梵寸は笑みを漏らしながらも、足を止めぬ。神速――真境に達した者のみが得る神技。足裏が風を掴み、岩壁を跳ね、空を滑るように進む。
「これでも、小吉のために速度を落としておるぞ」
「うそだぁ! 師匠の“落とす”は信用ならない!」
「あははっ、それも修行だよ、小吉!」
華が朗らかに笑い、白い息を散らす。その笑顔にはかつての暗さはなく、真境に至った者の清明があった。
――だが、その穏やかな空気を破ったのは、山の奥から響く低い唸り声だった。
「……熊?」
梵寸が足を止めると、風が止まり、鳥の鳴き声すら途絶えた。
次の瞬間、法螺貝の音が山を渡る。
「熊の鳴き声……いや、法螺が鳴ってる。星霜村の方角だ!」
華が声を上げる。
「嫌な気配だ。急ぐぞ」
「了解、にいに!」
二人は一気に速度を上げた。風が裂け、山道を蹴るたびに石が弾け飛ぶ。小吉の姿はあっという間に遠のいた。
「し、師匠ぉぉおおお!」
◇◇◇
星霜村が見えたとき、空気は血の匂いで染まっていた。倒れた柵、砕けた屋根、地に散った修験者の法具。あたりには熊の巨大な足跡が刻まれている。
法螺貝の音が再び鳴り響いた。
その先に、梵寸と華は駆け込む。
――そこには、山を裂くような咆哮とともに、巨大な熊が村人を襲う光景があった。
毛並みは煤けたように黒く、片目は白濁し、体は岩のように巨大。修験者たちは恐れを押し殺し、法螺を鳴らしながら熊の前に立ちはだかっていた。
「山の主よ! 山へ帰り給え!」
「この里に穢れは無い! 御身の怒りを鎮め給え!」
声を張るのは、前鬼剛蓮と後鬼静雅――星霜村の宗主である。彼らの声は震えていたが、目だけは祈りの光を失わぬ。
だが熊は聞く耳を持たず、唸りを上げて前脚を振り下ろした。
「危ない父上!」
雷丸が叫ぶが、その前に梵寸の気配が消えた。
――否、空気そのものに溶けた。
次の瞬間、熊の動きが止まる。
梵寸がただ一歩、踏み出していた。
その刹那、山全体が震える。
空気が凍り、修験者たちの呼吸すら止まった。
少年の身体から放たれた“殺気”は、まるで百年の怨念を束ねたかのように重い。
熊は梵寸の瞳を見た。
そして――その場に尻餅をつき、低く鳴いた。
「……帰れ」
梵寸の声は静かで、風に紛れるほど小さい。
だが、その言葉が響くや、熊は背を翻し、山奥へと駆けていった。
その去り際、春の風が再び吹いた。法螺貝の音も止み、ただ残るのは人々の荒い息だけ。
◇◇◇
しかし、静寂の後には別の震えが訪れた。
梵寸の“威”は、熊だけでなく人にも及んでいた。
修験者たちは次々に膝を折り、ある者は腰を抜かし、ある者は血反吐を吐いた。
前鬼剛蓮と後鬼静雅でさえ、杖を支えに立つのがやっとだった。
それでも二人は笑った。
「……継尊様。おいでくだされたのですね」
剛蓮が声を震わせながら頭を垂れる。
「お帰りなさいませ、継尊様」
静雅も同じく震えながらも、目に涙を滲ませた。
「うむ。久しぶりじゃな、剛蓮、静雅」
梵寸が静かに頷く。
その背後に、ようやく華が追いついた。
彼女は村の惨状を見て、目を丸くした。
「にいに……何したの? みんな……立てなくなってる」
「神気を放ちすぎた。すまぬ」
「すまぬ、って……これ、みんな震えてるよ!」
華が眉をひそめる。
梵寸はただ肩を竦め、苦笑した。
剛蓮がかすれた声で言う。
「継尊様……あの熊は、山の主にございます。我ら修験者にとって、殺めることなど恐れ多い。ゆえに、法螺を鳴らして山へお返ししようと……」
「承知しておる。ゆえに殺さなかった」
梵寸の眼差しは穏やかだった。
山の主を討たずに“退ける”。それこそ、真に自然と通じる者の術。
静雅が胸に手を当て、深く頭を下げた。
「その御心に、感謝いたします……」
「熊も、神も、人も、皆ひとつの理よ。わしがすることは、その理を正すのみだ」
梵寸の声が、風に溶けていく。
華はそんな兄の横顔を見つめ、ぽつりと呟いた。
「……にいに、やっぱり怖いくらい強いね」
「怖いのは力ではない。己の心だ」
少年の面に、老いた僧のような静けさがあった。
春の陽が差し込み、血の跡が淡く光る。
熊の咆哮も、法螺の音も、今はただ遠い。
――星霜の山神は沈黙した。




