第七話 妹を救うため、再び阿修羅となる
その夜。
梵寸は粗末な藁布団に身を横たえ、じっと天井の黒い梁を見つめていた。
湿った土壁の隙間から、虫の声と夜風が忍び込んでくる。だが彼の心は、静まるどころか嵐のように渦巻いていた。
――なぜ、わしは過去に戻ったのか。
思い返すのは最期の瞬間。前世、徳川家康が征夷大将軍に任じられた直後、天下泰平がようやく形を見せ始めたそのときに、己は命を落とした。
あれは天命か、それともただの偶然か。
だが次に目を開けたときには、七十年近くも前。
西暦一五三六年、戦乱の京。剣呑な空気が渦巻く、血と陰謀の只中であった。
――これはただの戯れではない。
不動明王の加護か、あるいは我への試練か。
梵寸の胸に、重い確信が芽生える。
「ならば……」
声に出さず呟いた。
甲賀衆惣領としての記憶と知恵は今なお鮮やかだ。どの合戦がいつ勃ち、誰が勝ち、誰が滅ぶか――すべて己の頭に刻まれている。
神器の眠る場所すら、後世の発掘記録として知っていた。
それらを用いれば、この乱世を渡りきれる。
いや、それだけでは足りぬ。
辿り着くべきは――江戸幕府の中枢。
甲賀の郷を治める藩主の座を得て、忍びの誇りを取り戻さねばならぬ。
その未来を切り拓くために、わしは戻されたのだ。
だが何よりも急ぐべきは――妹、華の命。
前世では肺の病に冒され、十歳を迎える月に息を引き取った。
あと四か月。
今度こそ救う。
薬を手に入れるためなら、どんな依頼でも受ける。どんな穢れ仕事も厭わぬ。
その決意に一片の迷いもなかった。
「……されど、この身はいまだ十二の童よ」
梵寸は苦く笑った。
肉体は幼い。腕力も脚力も、老いた頃に培った阿修羅の境地には程遠い。
ならば取り戻すまで。
丹田に神気を満たし、再び超人的な力を呼び覚まさねばならぬ。
藁布団から跳ね起き、迷わず川へ向かった。
昼間叩きのめした乞食どもが仲間を引き連れて戻る前に、修行を始めるべきだ。
月光に濡れる川辺。
梵寸は腰を下ろし、結跏趺坐の姿勢を取った。
両の手で剣印を結び、半眼で斜め下を見据える。
心に描くは、不動明王。
「ナウマク・サンマンダ・バサラダン・カン……」
低く、絶え間なく真言を唱える。百回、千回、万回。
雑念は燃え尽き、怒りも迷いも炎のように消えていく。
やがて、不動明王の炎と己の意識が溶け合った。
瞼の裏に浮かぶ神が、ゆるやかにこちらへ歩み寄ってくる。
梵寸は逃げなかった。むしろ、己の魂をその懐へ投じた。
その瞬間――。
身体がふわりと宙に浮いた。
十二歳の細い四肢から、光がほとばしる。
闇に沈んだ川辺を押し払い、揺らめく光が水面に映る。
夜の川に、一人の少年と神が重なり合ったような光景が浮かび上がっていた。
まるで天から遣わされた存在であるかのように――。




