第六十九話 静約の間(せいやくのま)
六角定頼の居室には、既に大名が静かに座していた。
剣は床脇に置かれ、蝋燭の淡い光が彼の横顔を照らしている。
その影は深く、まるで己の過去までも包み隠すようだった。
長年、戦と政を渡り歩いた者にしか纏えぬ重さが、部屋の空気を支配していた。
障子がわずかに開き、ひとりの影が音もなく現れる。
――梵寸。いや、今宵の彼は“無音”と名乗る男である。
その名の通り、気配も呼吸も、夜そのものの静けさをまとっていた。
定頼はゆっくりと顔を上げ、刀を取らずに言葉を放った。
「よく来た。……無音、という名であったか」
声は低く穏やかでありながら、降る雨のように確かな重みを持っていた。
一語一句が、聴く者の胸に沈み込む。
無音は深く一礼し、惣領としての節度を崩さずに応じる。
「六角定頼殿。約定を――交わしていただきたい」
定頼は一瞬、彼を見据えた。
その瞳は揺らがず、畳に置かれた紙と墨箱へと視線を落とす。
「……援軍を出さぬ旨の約定か」
無音は静かに頷いた。
定頼は立ち上がり、筆を手に取る。
揺れる蝋燭の炎が、筆先とともにわずかに震えた。
だがその手は老いを感じさせぬほど確かだった。
「我が一族の命運、そして周辺諸侯との兼ね合いを鑑みても、
延暦寺に軍を動かすことは慎重を要する。……だが、我が決断は我が責に属す。
貴殿の申す条件を受け入れるならば、ここに記す。
ただし――もし我が心に背く時は、その報いを我が手で受けよう」
筆が墨を吸い、紙面を滑る。
一画ごとに、静寂が深まる。
外では風が鳴いた。
まるでこの約定が、戦国の均衡をわずかに動かしたかのように。
やがて定頼は筆を止め、文を差し出した。
そこには確かに記されている。
「六角家は延暦寺へ援軍を出さぬ」と。
印章は深く、鮮やかに押されていた。
無音は文を受け取り、目を細める。
「これで良い。確かに、約定を預かった」
定頼はゆっくりと座に戻り、無音をまっすぐに見た。
その目には、戦国を生き抜いた者の冷静さと、どこか懐かしさにも似た敬意が宿っていた。
「無音よ。汝は己の信ずる道を歩むのだろう。
ならば我もまた、己の道を往かん。
……だが、忘れるな。
ひとつの刃が、やがて国をも断つことがある。
その報いは、いつか必ず汝の前に立つ」
その声は、静かなる警告であり、同時に別れの言葉でもあった。
無音は一礼し、約定を懐へと収めた。
――夜の気配が、再び戻る。
障子の外に出た無音の背に、微かな風が吹いた。
それはどこか、明日を告げるような、冷たくも澄んだ風だった。
「六角定頼……次は、貴公の番だ」
呟きは夜に溶け、月光の中へ消えた。
無音は足早に闇へと消えていく。
その行く先には、次なる宿命が待っていた。
◇◇◇
無音――いや、梵寸が去った後、
六角定頼は長く息を吐いた。
障子の向こうで夜風が鳴る。
書院の灯火は小さく、老将の横顔だけを淡く照らしている。
筆硯の上には、先ほど交わした約定の文が置かれたままだった。
墨の香がまだ暖かく、静寂が重く張りついている。
定頼はその文をしばし見つめ、
やがて、誰にともなく低く呟いた。
「……この世の理は、静けさの中にこそ潜む、か」
そのとき、控えの間から足音が近づいた。
若い武士が片膝をつき、手に封書を掲げる。
「殿。急ぎの書状にございます。
道中、斥候より届けられたとのこと」
定頼は頷くだけで、封を切った。
紙を広げ、眼をわずかに細める。
沈黙が落ちた。
蝋燭の炎が揺れ、紙の端に小さな影が生まれる。
やがて定頼は、何も言わずに書状をたたみ、
卓上に静かに置いた。
そして、
ゆっくりと顔を上げ、部下を見据える。
「……観音寺に伝えよ」
「はっ」
「兵の集結を、密かに整えよ。
旗も掲げるな、声も上げるな。
ただ――備えよ」
「承知いたしました」
武士は深く頭を下げ、足音を殺して闇の中に消えていった。
定頼はその背を見送り、
再び机上の封書に視線を落とす。
「世は静かに乱れてゆく……」
その言葉が、夜の底へ沈んでいった。




