第六十七話 夜鴉の静寂
三月中旬。甲賀の山を夜霧が覆う。
月は細く、静寂が支配していた。
六角定頼の寝所に至る道筋には、今宵、罠が一つもなかった。
それは、甲賀衆が最後の切り札――筆頭惣領を前線に立たせた証であった。
その静寂のただ中、音もなく影が一つ、屋根を滑った。
闇に溶けるような動き。
無音――梵寸である。
(……罠が、ない)
屋根に着地しながら、梵寸は感情を揺らさなかった。
これまでの侵入では、矢裂狭衝、幻霧陣、奈落、そして覇境三人が待ち構えていた。
だが今夜は何もない。何の仕掛けもなく、一直線に六角定頼の寝所へとたどり着けてしまう。
――いや。
罠そのものが、ここにいる。
庭の松影に、一人の男が立っていた。
その姿は、闇夜でもはっきりとわかる。
立ち姿から放たれる圧倒的な威圧感。
強力な神気により、空間が歪む。
「……よう来たな、“無音”と名乗る者よ」
低く響く声。月明かりに照らされ、その顔が露になる。
望月出雲――甲賀衆五十三家を束ねる惣領にして、甲賀衆最強の忍び。
「甲賀惣領、望月出雲守。忍びの里の頂に立つ者なり」
望月は一歩、ゆっくりと前へ出た。
草の露が、かすかに鳴る。
「闇に生き、影に死す。それが我らの定めだ。……名乗れ」
無音は一歩も退かず、まっすぐにその男を見返した。
「――無音。それ以上でも、それ以下でもない」
出雲の眉がわずかに動く。
「勢力を問う。どこの忍びだ」
「…………」
沈黙。無音は何も答えなかった。
「……ふん。ならば、捕らえて吐かせるまでよ」
夜の静寂を引き裂くように、出雲の神気が膨れ上がった。
極境上位。甲賀衆の頂き。
周囲の木々がわずかに震えたように感じた。
「――行くぞ!」
声と同時に、影が弾ける。
その瞬間、無音の姿もまた霧のように消えた。
甲賀忍法・第一ノ型《風鴉神速》。
忍びが極限まで踏み込み、間合いを一瞬でゼロにする技。
草の上を、風だけが走った。
「っ……!」
空を裂くような速度で、出雲の手刀が横薙ぎに走る。
無音はその一撃を紙一重で身をひねり、逆に出雲の背後へ回り込んだ。
――だが、そこにはすでに出雲がいた。
残像。
甲賀忍法・第二ノ型《幻影分身》。
高速の軌跡そのものを影とし、相手を欺く技。
「甘いわ、無音」
出雲の声とともに、背中に衝撃が走る。
無音は刹那、身を沈め、地を滑るようにかわした。
互いに真正面から斬り結ぶことはない。
甲賀の戦いとは、先に背を取った者が勝ち、影を踏ませた者が死ぬ――そういう世界だ。
「面白い」
無音の口元が、かすかに笑みを描く。
「笑うか」
出雲の眼光が夜を射抜く。
再び影が交錯した。
雷鳴のような風切り音。
出雲は甲賀忍法・第三ノ型《雷影突刃》を放つ。雷の閃光のように直線的に突進し、あらゆる防御を貫く一撃。
無音は瞬時に身を沈め、出雲の足首を狙って一閃。
しかし、出雲の足もまた残像。
(この男……速い)
出雲の呼吸が深くなる。神気がほとばしり、体の周囲の空気が震えた。
「――終いじゃ」
出雲は一歩踏み込み、夜風を切り裂いた。
その姿が消え、次の瞬間には無音の真横に立っていた。
「甲賀忍法――第四ノ型《首断夜鴉》!」
空を裂く鋭い音とともに、出雲の刃が稲妻のように無音の首元へ走る。
この技は、甲賀の奥義の中でも最強と謳われる百発百中の暗殺技。
影に紛れ、速度を極限まで引き上げ、ただ一撃で首を落とす――忍びの完成形とも呼ばれている。
刹那、夜空に鴉の鳴き声が響いたような錯覚。
出雲の瞳がギラリと光る。
「――首を取ったぞ、無音よ!」
月明かりが、二人の間を照らした。
夜の闘いは、まるで幻のように、一瞬のうちに決着したかのように見えた。




