第六十五話 影、智を断つ
――風が吹いていた。
夜半の風は山を越え、薄い雲を裂き、琵琶湖のほとりにある城下を冷たく撫でる。
屋敷の障子が微かに鳴ったその刹那、ひとつの影が滑り込む。
名を――梵寸という。
年の頃は十二。だが、その瞳には七十九の死を見た者の静寂があった。だが、今はその名を使わず「無音」と名乗っていた。後に甲賀の郷に入るためである。
彼は息を潜め、障子の隙間を通り抜ける。畳の香と油煙がわずかに鼻を刺した。
寝所の奥、灯明の光が微かに揺らめく。
そこに――六角定頼がいた。
枕元に刀を立て、まるで獲物を待つ獣のように座している。
眠りなどとうに捨てた顔だ。
無音が現れるのを、読んでいたのだろう。
「貴様、また来たか」
静かな声が、夜気を裂く。
定頼の眼は氷のように冴え、智謀を湛えた笑みが浮かぶ。
「貴様の陣に、甲賀の誇りに――穴を開けたのは我だ」
無音はわずかに顎を上げ、短刀を構えた。刃先が月光を受けて白く光る。
定頼はその冷たさに、ひとつ息を吐いた。
「忍び風情が我を咎めるか。笑止。人を斬るも、兵を動かすも、すべては我が知恵のうち。貴様らの影法師に、何を言われる筋合いもない」
その声音は平然としていたが、指先は刀の柄を離さない。
老練な武人――だが、夜の闇は誰にとっても敵である。
定頼が立ち上がると、畳の上で衣が擦れた。
そして、一閃。
刃が風を裂く音が走る。
無音は身を沈め、半歩退いた。
剣速は確かに速い――だが、速さに理があるなら、彼は理の外に生きる男だ。
短刀が鳴った。
金属のきしむ音が、夜気を鋭く切り裂く。
闘うたび、定頼の刀が空気を灼くように揺れた。
「六角剣術第二ノ型――焔霞斬り!」
炎が走る。神気が刀身にまとわり、橙の軌跡を描いた。
それはまるで夜そのものを燃やし尽くすような剣。
だが無音は恐れない。
刃の軌跡を読む――呼吸の一拍、風のひとつ。
短刀が跳ね上がり、火花を弾く。
鋼の音が一瞬だけ高く鳴り、次の瞬間には、定頼の刀が畳を打っていた。
無音の姿は、もうその懐にある。
刃が喉元を掠め、鮮血の代わりに冷気が走った。
「……馬鹿な」
定頼の唇が震えた。腕を振るうが、重い。動かぬ。
その目に、わずかに恐怖が宿る。
無音は短刀を押し当てた。胸の鼓動が、刃越しに伝わる。
定頼の息が乱れる中、彼は低く告げた。
「聞け、六角定頼」
その声は、炎ではなく氷の響きを持っていた。
「次は――最後だ。二度、猶予をやった。三度目に約定を違えたなら、逃げても無駄だ。必ず、貴様を討つ」
言葉が畳に落ち、血よりも重く沈む。
定頼の顔色が青ざめた。怒りとも恐れともつかぬ表情のまま、ただ、息を吸うことしかできない。
――これが、甲賀の闇の王の眼だ。
彼はそう悟った。
無音は刃を引き、背を向ける。
音もなく闇に消えた。障子がわずかに揺れ、月光が差し込む。
定頼は畳に膝をつき、息を荒げた。
震える手で刀を掴む。
彼の胸に残ったのは、恐怖でも屈辱でもなく――ただ、刺すような確信だった。
「次は、最後だ」
その一言が、夜よりも深く彼の心に沈んでいった。
◇◇◇
夜が明ける。
霧が谷を覆い、鳥の声さえ遠くに霞む。
甲賀の里では、また火が焚かれていた。
梵寸――いや、無音が、六角定頼の寝所に再び現れたという報せが届いたのだ。
覇境三名の忍びが、抵抗も許されぬまま倒された。
会議所には五十三家の惣領が顔を揃え、怒りが木霊する。
山中政重が拳を叩きつけた。
「覇境三人が沈められたと!? 一夜にして、甲賀が愚弄されたというのか!」
多羅尾光俊が険しい目を向ける。
「無音――あの男、尋常ではない。罠を破り、守り手を討ち、六角殿の寝所にまた入り込んだ。これでは甲賀の名が地に堕ちる!」
箕作新右衛門も沈痛な声で続けた。
「六角殿は無傷。朧月は全滅。術も結界も、すべて破られた。あやつ、極境に至ったというのか……!」
怒号が飛び交い、畳が軋む。
しかし、ただ一人、筆頭惣領――望月出雲だけは沈黙していた。
拳を膝の上で握りしめ、白くなるほど力を込める。
その双眸は、怒りよりも深い闇を宿している。
やがて出雲は、低く呟いた。
「……甲賀衆は、二度、恥をかかされた」
その声は刃のように鋭く、会議所の空気を凍らせた。
「罠も術も、朧月も……すべて通じなんだ。甲賀の面目は、地に落ちた」
惣領たちが息を呑む。
沈黙――それが怒りよりも重かった。
出雲は顔を上げ、ただ一言を放つ。
「次は、この望月出雲が無音を討つ」
その場の空気が、一瞬で張り詰めた。
出雲は今、甲賀で最強と謳われる忍び。
彼が動くということは――里が戦を決意したも同然だった。
「面目を潰された恥、我が手で返す。極境だろうと、天の上を覗こうと――甲賀の惣領の我に敵うはずもなし」
その瞳に怯みはない。
怒りではなく、誇りの炎。
静かな覚悟が、霧よりも濃く会議所を満たす。
外では、夜明けの霧が山を薄く覆っていた。
冷たい風が木々を鳴らし、火の粉が宙に舞う。
――無音と望月出雲。
甲賀の影を裂く、宿命の二つの刃。
その交わる刻は、もはや遠くなかった。




