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乞食からはじめる、死に戻り甲賀忍び伝  作者: 怒破筋
第二章 天文法華の乱ーー燃えゆく京
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第六十四話 朧月、沈む夜

 風が止んでいた。

 木々は沈黙し、月は雲に隠れている。

 山の稜線だけが、闇の底でぼんやりと白く光っていた。

 ――夜の気が、変わった。


 望月左近は、その変化を皮膚で感じ取った。

 甲賀五十三家のうち、六角家に仕える精鋭「朧月三人衆」。

 その最後の一人――影刃の左近である。


「……勘解由、俊政。無音にやられたか」


 声は低く、風に溶けた。

 仲間の多羅尾勘解由、山中俊政が倒れたとの報せは、夜風が運んできた。

 いま、その風が頬を切るほどに冷たい。


(来るか、無音――)


 左近は片膝をつき、指先で土を撫でた。

 乾いた砂が細かく震える。

 草の揺れ、虫のざわめき、風の匂い――どこにも敵の気配はない。


 ――それが、最も危うい。


(甲賀忍法・第一ノ型《闇影潜行》)


 気配を消し、影と一体になる歩法。

 達人・望月左近の手にかかれば、存在そのものが闇へと溶ける。


 腰の短刀を抜くと、刃が月光をわずかに反射し、青い線を描いた。

 呼吸を整える。心臓の鼓動が静寂の中に響く。


 ――その時。


 闇の中で、かすかな動き。


(右か……否、風が違う。擬音か……無音め、小癪な)


 影を縫い、音を追う。しかし、そこには誰もいない。


(わしに気配を悟らせぬとは……)


 数度、虚を突かれた。

 無音――恐ろしいほどの腕。


 忍びとは現実を読む者。見たもの、聞いたものをそのまま受け入れる。

 判断を誤る者から、死んでいく。


 左近は目を閉じ、完全に闇と一体になった。

 ただひたすら、無音の気配を探る。


 沈黙の時が流れ、草が布に擦れる音が左手の後方から届く。


(好機――!)


 左近は目を見開いた。

 次の瞬間、影が弾ける。

 《闇影潜行》の速度は稲妻の如く。

 木々の影の中、黒衣の頭巾がわずかにのぞいた。


(ははは……ついに見つけたぞ。無音め、焦ったな)


 移動の最中、短刀に毒を塗る。

 それは左近自ら調合した、甲賀最強のマムシ毒。

 刃が紫に染まり、月光を呑む。


(勘解由、俊政の仇――ここで果たす!)


 毒刃が闇を裂き、黒服の首筋を狙う。


 だが――


 冷たいものが、自らの喉元に触れた。

 息を呑む間もなく、短刀の切っ先が鼓動を正確に押さえた。


「甲賀朧月三人衆の望月左近――よく耐えた」


 静かな声が夜を貫く。


 その声の主は、己を“無音”と名乗る忍び。

 しかし、それは偽りの名にすぎない。

 彼の真の名は“梵寸”。

 いずれ甲賀の列に加わるため、いまは素性を明かさぬまま影を渡り歩いている。

 その身に刻まれた信念は、静謐でありながらも烈しかった。


 望月は汗を伝わせ、かすかに口角を上げた。


「……勘解由も、俊政も、貴様にか」


「奴らは静かに眠っている」


 無音は囁き、刃をわずかに押し当てた。

 左近の喉が震え、鉄の匂いが夜気に混じる。


「殺さぬのか。我らを愚弄する気か」


 怒りが、血を沸騰させた。


「否――恥を返す」


 その一言に、望月の胸がかすかに震える。


 恥を返す。

 それは忍びにとって、死より重い裁き。

 生かされた者は、己の影にさえ嘲られる。


「……貴様、何を企む」


 無音は刃を離し、静かに言った。


「次に相まみえる時まで、腕を磨いておけ」


「な……何だと!? 貴様ぁ――!」


 短刀を振り上げるより早く、無音の指が頸の一点を突いた。


 視界が白く弾け、力が抜ける。


「策も罠も見事だった。だが――自負が焦りを呼んだ」


 遠く、無音の声が響く。


「現実を見ぬ者に、影は従わぬ」


 倒れ込みながら、左近は地を見た。

 雲の切れ間から月光が落ち、草を淡く照らしている。

 多羅尾が倒れた場所も、山中が斬られた地も、同じ光が包んでいた。


「……無音……なぜ殺さぬ」


「死では終わらぬ贖いがある。生きて恥を背負い、己の影を見続けろ――それが朧月の務めだ」


 その声には怒りも憎しみもない。

 ただ、長い歳月を越えてなお沈まぬ、深い静けさがあった。


 ――望月左近。

 彼こそ、後に甲賀筆頭惣領となる男。


 天正二年、甲賀攻め。

 織田信長の勢いは飛ぶ鳥を落とすごとく、甲賀衆は敗北する。

 左近の誇りが、判断を曇らせた。

 多くの忍びが死に、朧月も滅んだ。


 その未来を、無音――いや、梵寸は見ていたのであった。


 彼は倒れた左近の背に手を置き、静かに息を吐く。


「次に会う時――お前がまだ忍びでいられるなら、その時こそ決着だ」


 それだけ告げ、闇に溶けた。

 音もなく、風さえも彼の足跡を追えぬ。


 ――夜が明ける。


 六角家の寝所の外、三つの影が静かに横たわっていた。

 山中俊政、多羅尾勘解由、そして望月左近。

 いずれも生きていたが、術は解けず、朝まで意識は戻らない。


 それでも胸の奥で――忍びの誇りだけが、まだ燃えていた。


 風が吹く。

 月の名残が消え、東の空が白む。

 鳥の声がひとつ、またひとつと戻っていく。


 その夜、

 甲賀の里では「朧月が敗れた夜」として長く語り継がれることとなる。


 だが、誰も知らぬ。

 その闇の向こうで、梵寸が一人、己の影を見つめていたことを。

 ――名を隠し、志を守るための夜を。

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