第六十三話 月矢、闇を裂く
甲賀五十三家のひとつ、多羅尾家の惣領――多羅尾勘解由は、観音寺城の第二の関門にて、侵入者を待っていた。
標的の名は「無音」。忍びの間でも、名を聞けば息を呑むほどの化け物だという。
勘解由は暗殺を専とする女忍び。棒手裏剣――刃のない一本の鉄釘を得物とする。
寸鉄の一種だが、彼女の矢は風よりも速く、神気を用いずとも十六間半(約三十メートル)先の眉間を正確に撃ち抜く。
標的は、息絶えるまで己の死を悟らぬ。
ゆえに人は彼女を「月矢」と呼んだ。
◇◇◇
夜の帳が深く降りていた。
甲賀の山々を撫でる風は春を孕みながらも、骨の芯まで冷たく、霧が肌に絡みつく。
通路の入口にある老木の枝上。
勘解由は闇に溶け、息を潜めていた。
背後には六角定頼の寝所へと続く秘密の抜け道がある。
――契約により、守るべき場所。
そのためにこそ、この矢がある。
月は細く、雲に覆われ、光を惜しんでいた。
暗視の術を展じた勘解由の瞳には、夜の層が幾重にも重なって映る。
風の揺らぎ、虫の羽音、石の裂け目に潜む湿り――。
彼女はそのすべてを呼吸のように感じ取り、指先に集中を集めた。
(来る)
夜気が一筋、逆流した。
音も気配もない。ただ風が“戻る”。その微かな乱れに、勘解由は確信する。
闇の中、黒い影が地を這うように進んでいた。
罠の縄を、まるで己の指の一部のように撫でている。
(縄に触れたな……)
勘解由は棒手裏剣を番え、息を止めた。
矢が放たれる。
音もなく、光もなく、空気だけが鋭く切り裂かれる。
狙いは眉間――その一点。
だが矢は空を掠め、柱に突き刺さった。
(外した……?)
二の矢、三の矢。
放つたびに、矢筋がわずかに逸れる。
風が乱れている。いや、違う――風そのものが、敵の味方をしている。
(神気……強力な術で、矢の進路を歪めている!)
次の瞬間、縄が切れた。
沈黙の中で、石の軋む音が響く。
そして、闇が動いた。
最後の罠――甲賀忍法《隠槍の奈落》。
土に偽装された床。その下には無数の槍。
一歩踏み外せば串刺し。しかも、彼女が改良を加えた特製。
罠が作動すれば、槍は下から上へ、獣を貫くように飛び出す。
飛び越えることなど、まず不可能だ。
梵寸は罠の上を軽やかに越えた。
上方へ槍が飛ぶ――だが避けようともしない。
(ふふっ……これで終わりだ、無音といえども)
だが、次の瞬間。槍が砕けた。
(まさか剛力無双……!)
驚愕する間もなく、影が消えた。
風が切れる。
気づけば、冷たい刃が白い喉に触れていた。
「……殺す気はない」
低く、静かな声。
少年のような響き。それでいて、百の修羅場を経た者の声音だった。
勘解由の喉がわずかに動く。
棒手裏剣をかわし、罠を無にし、己の首筋に刃を置く者。
十年鍛えた技が、初めて“見切られた”瞬間だった。
「負けたわ。殺せ」
乾いた声で言った。
梵寸は答える。
「殺す気はない」
雲の切れ間から月が顔を出し、二人の影を照らす。
梵寸は刃を少しだけ離した。
その動きに、殺意はない。むしろ、哀しみすら感じられた。
若い顔立ち。だが、その瞳には、幾百の死線を越えた深みがある。
「……おぬし、無音か」
「……そうじゃ。我は無音。日ノ本を“泰平の世”へ導く者なり」
刃が離れる。
自由を取り戻しても、勘解由は動かなかった。
「泰平の世……? 無音よ、それはどこぞの僧の説か?」
男は殺しを楽しむ者ではない。
いつでも彼女を斬れる距離にいながら、斬らない。
覇境に達した勘解由でさえ、気づかぬほどの速さ。
だが、それ以上に――戦いそのものを“拒む強さ”があった。
「……奇妙な男だ」
「奇妙なのは、世の方だ」
梵寸は小さく笑った。
月光がその横顔を照らす。
その笑みには、疲れと、揺るぎぬ理想が混ざっていた。
「戦のたびに血を流し、同胞を斬り、守るべきを忘れた。
おぬしの棒手裏剣もまた、“守るため”に人を殺しておるのではないか?」
勘解由の眉がわずかに動いた。
言い返せなかった。
矢を放つ理由を問われたのは、これが初めてだった。
夜の冷気が、首筋を撫でる。
その冷たさが、彼女の心を静かに研いでいく。
「……我は、己の里を守る。それだけだ」
「守るために斬る。それを正義と呼ぶなら、我もまたその罪の同胞よ」
夜風が二人の間を抜け、草の葉を鳴らした。
沈黙の中に、わずかな理解が芽生える。
「……貴様、“泰平の世”とは何だ」
その言葉に、勘解由の声はわずかに震えていた。
“泰平の世”――この時代には存在しない言葉。江戸幕府を開いた徳川家康が作った言葉であった。
彼女はその意味を測りかねていた。
「日ノ本の戦を終わらせる――それだけのことだ」
その声には、一片の迷いもなかった。
梵寸の瞳は、遠い夜を見ているようだった。
勘解由は息を呑む。忍びが、戦を終わらせようなどと――あり得ぬ理想。
だが、その眼差しには冗談も虚勢もない。
幾度も死の夜を越えてきた者だけが持つ、冷たい炎。
矢を納め、深く息を吐いた。
「……面白い。理想だけで夜は越せぬぞ」
「理想なき夜は、ただの闇だ」
その声は、風と共に消えた。
姿も、夜気に溶けるように消えた。
残されたのは、舞い落ちた布の切れ端。
触れると、冷たい露が指を濡らした。
勘解由はそれを握りしめ、独りごちる。
「……見逃された、か。いや――試されたのかもしれんな」
空を見上げれば、月が雲間から覗く。
白い光が矢羽の油を照らし、ゆらりと揺れる。
その光を胸に、勘解由は棒手裏剣を懐へ戻した。
風が止み、夜が再び静まり返る。
胸の奥で、何かが芽吹く。
それは敗北の痛みではない。
――誰かの信念に心を動かされた、久しく忘れた感情。
「次に会うときは……我が矢で、答えを示そう」
その声は夜に溶け、山の奥へ消えていった。
夜明けはまだ遠い。
だが、彼女の中には、確かに新しい風が吹き始めていた。




