表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
乞食からはじめる、死に戻り甲賀忍び伝  作者: 怒破筋
第二章 天文法華の乱ーー燃えゆく京
63/86

第六十三話 月矢、闇を裂く

 甲賀五十三家のひとつ、多羅尾家の惣領――多羅尾勘解由たらお・かげゆは、観音寺城の第二の関門にて、侵入者を待っていた。

 標的の名は「無音」。忍びの間でも、名を聞けば息を呑むほどの化け物だという。


 勘解由は暗殺を専とする女忍び。棒手裏剣――刃のない一本の鉄釘を得物とする。

 寸鉄の一種だが、彼女の矢は風よりも速く、神気を用いずとも十六間半(約三十メートル)先の眉間を正確に撃ち抜く。

 標的は、息絶えるまで己の死を悟らぬ。

 ゆえに人は彼女を「月矢」と呼んだ。


◇◇◇


 夜の帳が深く降りていた。

 甲賀の山々を撫でる風は春を孕みながらも、骨の芯まで冷たく、霧が肌に絡みつく。

 通路の入口にある老木の枝上。

 勘解由は闇に溶け、息を潜めていた。


 背後には六角定頼の寝所へと続く秘密の抜け道がある。

 ――契約により、守るべき場所。

 そのためにこそ、この矢がある。


 月は細く、雲に覆われ、光を惜しんでいた。

 暗視の術を展じた勘解由の瞳には、夜の層が幾重にも重なって映る。

 風の揺らぎ、虫の羽音、石の裂け目に潜む湿り――。

 彼女はそのすべてを呼吸のように感じ取り、指先に集中を集めた。


 (来る)


 夜気が一筋、逆流した。

 音も気配もない。ただ風が“戻る”。その微かな乱れに、勘解由は確信する。

 闇の中、黒い影が地を這うように進んでいた。

 罠の縄を、まるで己の指の一部のように撫でている。


 (縄に触れたな……)


 勘解由は棒手裏剣を番え、息を止めた。

 矢が放たれる。

 音もなく、光もなく、空気だけが鋭く切り裂かれる。

 狙いは眉間――その一点。


 だが矢は空を掠め、柱に突き刺さった。


 (外した……?)


 二の矢、三の矢。

 放つたびに、矢筋がわずかに逸れる。

 風が乱れている。いや、違う――風そのものが、敵の味方をしている。


 (神気……強力な術で、矢の進路を歪めている!)


 次の瞬間、縄が切れた。

 沈黙の中で、石の軋む音が響く。

 そして、闇が動いた。


 最後の罠――甲賀忍法《隠槍の奈落》。

 土に偽装された床。その下には無数の槍。

 一歩踏み外せば串刺し。しかも、彼女が改良を加えた特製。

 罠が作動すれば、槍は下から上へ、獣を貫くように飛び出す。

 飛び越えることなど、まず不可能だ。


 梵寸は罠の上を軽やかに越えた。

 上方へ槍が飛ぶ――だが避けようともしない。

 (ふふっ……これで終わりだ、無音といえども)

 だが、次の瞬間。槍が砕けた。


 (まさか剛力無双……!)


 驚愕する間もなく、影が消えた。

 風が切れる。

 気づけば、冷たい刃が白い喉に触れていた。


「……殺す気はない」


 低く、静かな声。

 少年のような響き。それでいて、百の修羅場を経た者の声音だった。


 勘解由の喉がわずかに動く。

 棒手裏剣をかわし、罠を無にし、己の首筋に刃を置く者。

 十年鍛えた技が、初めて“見切られた”瞬間だった。


「負けたわ。殺せ」


 乾いた声で言った。

 梵寸は答える。


「殺す気はない」


 雲の切れ間から月が顔を出し、二人の影を照らす。

 梵寸は刃を少しだけ離した。

 その動きに、殺意はない。むしろ、哀しみすら感じられた。


 若い顔立ち。だが、その瞳には、幾百の死線を越えた深みがある。


「……おぬし、無音か」


「……そうじゃ。我は無音。日ノ本を“泰平の世”へ導く者なり」


 刃が離れる。

 自由を取り戻しても、勘解由は動かなかった。


「泰平の世……? 無音よ、それはどこぞの僧の説か?」


 男は殺しを楽しむ者ではない。

 いつでも彼女を斬れる距離にいながら、斬らない。

 覇境に達した勘解由でさえ、気づかぬほどの速さ。

 だが、それ以上に――戦いそのものを“拒む強さ”があった。


「……奇妙な男だ」


「奇妙なのは、世の方だ」


 梵寸は小さく笑った。

 月光がその横顔を照らす。

 その笑みには、疲れと、揺るぎぬ理想が混ざっていた。


「戦のたびに血を流し、同胞を斬り、守るべきを忘れた。

 おぬしの棒手裏剣もまた、“守るため”に人を殺しておるのではないか?」


 勘解由の眉がわずかに動いた。

 言い返せなかった。

 矢を放つ理由を問われたのは、これが初めてだった。


 夜の冷気が、首筋を撫でる。

 その冷たさが、彼女の心を静かに研いでいく。


「……我は、己の里を守る。それだけだ」


「守るために斬る。それを正義と呼ぶなら、我もまたその罪の同胞よ」


 夜風が二人の間を抜け、草の葉を鳴らした。

 沈黙の中に、わずかな理解が芽生える。


「……貴様、“泰平の世”とは何だ」


 その言葉に、勘解由の声はわずかに震えていた。

 “泰平の世”――この時代には存在しない言葉。江戸幕府を開いた徳川家康が作った言葉であった。

 彼女はその意味を測りかねていた。


「日ノ本の戦を終わらせる――それだけのことだ」


 その声には、一片の迷いもなかった。

 梵寸の瞳は、遠い夜を見ているようだった。

 勘解由は息を呑む。忍びが、戦を終わらせようなどと――あり得ぬ理想。


 だが、その眼差しには冗談も虚勢もない。

 幾度も死の夜を越えてきた者だけが持つ、冷たい炎。


 矢を納め、深く息を吐いた。

「……面白い。理想だけで夜は越せぬぞ」


「理想なき夜は、ただの闇だ」


 その声は、風と共に消えた。

 姿も、夜気に溶けるように消えた。


 残されたのは、舞い落ちた布の切れ端。

 触れると、冷たい露が指を濡らした。

 勘解由はそれを握りしめ、独りごちる。


「……見逃された、か。いや――試されたのかもしれんな」


 空を見上げれば、月が雲間から覗く。

 白い光が矢羽の油を照らし、ゆらりと揺れる。

 その光を胸に、勘解由は棒手裏剣を懐へ戻した。


 風が止み、夜が再び静まり返る。

 胸の奥で、何かが芽吹く。

 それは敗北の痛みではない。

 ――誰かの信念に心を動かされた、久しく忘れた感情。


「次に会うときは……我が矢で、答えを示そう」


 その声は夜に溶け、山の奥へ消えていった。

 夜明けはまだ遠い。

 だが、彼女の中には、確かに新しい風が吹き始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ