第六十二話 風裂、夜を断つーー朧月の誓い
甲賀五十三家のひとつ、山中家の惣領・風裂の俊政は、観音寺城の第一の関門にて、ひとり夜気を見張っていた。
風が止み、月光が石畳を白く濡らす。息ひとつすら乱せば、音が立つほどの静寂――。
甲賀忍びの間で“風裂”の名を聞けば、それは即ち死の訪れを意味する。
俊政が放つ殺気は、まるで風そのものの刃であった。六角定頼の兵たちは、忍びの戦を妨げぬよう、城外に退かせてある。
いま、城内にあるのは俊政ただひとり。
沈黙の中、竹が鳴る。
俊政は瞼を閉じ、風の流れを読む。
「……わずかに、風の道が乱れておる」
呟きは夜に溶け、返す声はない。
忍びにとって“風”とは世界そのもの。音、気、匂い――すべての変化は敵の存在を告げる。
俊政は膝を折り、闇に沈む。
瞬間、足裏にわずかな震えが走った。土が鳴る。風が裂けた。
「――来たか」
その刹那、俊政の身体が斜めに飛ぶ。
地を蹴る音は一切ない。ただ、砂粒が宙に舞い、月光を散らす。俊政がいた場所に、手裏剣が三本、石畳に突き刺さった。
「……甲賀忍法第二ノ型・霞刃飛沫か」
俊政の瞳が鋭く光る。
だが敵の姿はない。気配すらも掴めぬ。闇が形を持たぬまま、彼の呼吸の隙を探っていた。
「何者だ……この気配、まるで虚無……」
そのとき。
黒い糸のような線が闇の中から伸び、俊政の喉を締め上げた。
「……ぬ、これは……!」
喉が潰れ、息が詰まる。両腕にも糸が絡みつき、体を封じた。
それでも俊政の瞳は凍てついたまま、敵の術理を見極めようとしていた。
(糸の気が読めぬ……影を媒介にした封縛術か。まさか――影縫縛撃!? 出雲殿が使うと聞いた禁術……奴は、極境か!)
黒衣の影が一歩、月明かりを拒むように進み出た。
その存在は輪郭すら曖昧で、まるで夜そのものが形を成したようだった。
俊政は唇を裂き、血を滲ませながら問う。
「忍びの掟、心得ておるな……姿を見せぬか……ぐっ……!」
闇は沈黙で答えた。
ただ、糸がきしむ音と共に、空気が切り裂かれる。
次の瞬間、俊政は力を込める。
糸がわずかに緩んだ隙を逃さず、体内の術式を逆流させた。
「――破っ!」
光が弾け、糸が波打つ。
だが、敵の指が別の印を結んだ。俊政の呼吸を封じる、逆流封陣。
(見事だ……)
喉を塞がれながらも、俊政は笑った。
自らの命を奪う相手に、同じ忍びとしての敬意があった。
(この技、この力……ただの刺客ではない。我らでは勝てぬ。だが――終われぬ。朧月の三人、あの誓いを果たすまでは……!)
闇がうねり、地が裂けた。俊政の足が影に沈む。
空気がねじれ、月の輪郭が揺らぐ。
黒衣の影が低く呟く。
「……死に戻り前は、雲の上の存在であった風裂に、乞食のわしが勝つとはの」
その声は、風よりも冷たかった。
俊政の身体が黒い幕に包まれ、沈むように消えていく。
風が止み、夜が静寂を取り戻す。
竹の葉がひとひら、俊政の影に落ちた。
やがて、裂け目が閉じ、闇が静まり返る。
――だが、微かな音があった。
鼓動。
弱く、しかし確かに生きている。
黒衣の影がその場を去ろうとした時、俊政の胸がわずかに上下した。
血が流れ、呼吸が戻る。風が再び吹き抜けた。
夜の匂いが蘇る。
庭の片隅、竹の影の下で、俊政の指がかすかに動いた。
「未来の強力な仲間になる戦力を、ここで失うわけにはいかぬ」
黒衣の影が静かに背を向けた。
雲間から月が顔を出し、白い光が俊政の頬を照らす。
幼い顔立ちに刻まれた老練の影。
それは、戦場をまだ諦めぬ者の貌だった。
――朧月の三人、その一角、山中俊政。
彼の物語は、まだ夜明けを迎えていなかった。




