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乞食からはじめる、死に戻り甲賀忍び伝  作者: 怒破筋
第二章 天文法華の乱ーー燃えゆく京
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第六十一話 朧月、影に誓う

 甲賀の里は、春まだ浅く、霧の底に沈んでいた。

 谷を包む薄靄が夜気を呑み込み、木々の枝には氷の名残が白く光る。

 囲炉裏の灰はかすかに赤みを帯び、夜を越えた怒りの熱を、なお息づかせていた。


 「――六角殿の寝所を破られた。これは甲賀の恥である」


 望月出雲の低く響く声が、会議所の梁を震わせた。

 囲むは五十三家の頭領たち。灯火が揺らめくたび、沈黙がさらに重く沈む。

 土間の冷気には血のような緊張が漂い、誰もが息を殺して出雲守を見つめていた。


 「無音とやら、我らの術を知り尽くしておる。誰かが口を割ったか、それとも……」


 山中俊政が、吐息とともに言葉を零した。

 その声音は静かであったが、背に潜むのは戦慄である。

 敵が甲賀の術を知るということは、すなわち――甲賀そのものが試されているということだった。


 出雲は沈黙したまま、全員を冷ややかに見渡した。

 「罠を重ねよ。幻霧陣の外に毒霧を張り、通路には回転刃。床には音感応の仕掛けを足せ。

  見張りには夜気を嗅ぐ者を置け」


 言葉は鋼のように短く、確かだった。

 その指示一つで、何人もの命が救われると同時に、何人もの命が散る――その重さを誰もが知っていた。


 多羅尾勘解由が立ち上がる。

 巻物を広げるその手には、迷いがない。

 「毒霧はわしが調える。風向きが変われば逆流もあり得る。扱いを誤れば味方が先に倒れるぞ」

 穏やかな声に潜むのは、死の気配だった。だがその死は、己が差し出すものだ。


 出雲は首を横に振った。

 「罠のみでは足りぬ。六角殿の寝所を狙われた以上、術と肉、両の守りが要る」


 場の空気が一瞬で凍りつく。

 その言葉が意味するもの――“人を出す”という決断である。

 沈黙ののち、出雲は重々しく告げた。


 「――朧月三人衆、六角殿の守りに送る」


 その名が放たれた瞬間、会議所の空気が震えた。

 “朧月三人衆”――甲賀でも最精鋭、影と月の狭間を渡る者たち。

 その出陣は、すなわち甲賀が“戦”を選ぶという宣告でもあった。


 「山中家より――風裂の俊政」

 「多羅尾家より――月矢の勘解由」

 「望月家より――影刃の左近」


 三つの名が響くたび、灯火が揺れ、誰かの喉が鳴った。

 その名を知る者なら誰もが悟る――この三人が動く時、里に血の風が吹く。


 山中俊政が声を上げた。

 「出雲殿、覇境を三名も動かすとは……無音はそれほどの相手か」


 出雲はゆるりと目を細めた。

 「奴の境地は三段階か、あるいはそれを超える。だが追う必要はない。

  ――来るなら叩く。それが甲賀の理よ」


 その瞳は、黒鉄のように冷たく、揺るぎなかった。

 “攻め”ではなく“迎え撃つ”。

 甲賀の忍びにとって、それは誇りであり、宿命でもあった。


 沈黙の中、俊政が口を開いた。

 「風が告げておる。奴はまだこの山中に潜む」

 その声は鋭く、風そのもののように軽やかだった。


 勘解由は静かに頷き、懐から月形の刃を取り出した。

 「月は満ちる。影が濃くなる時ほど、刃は鈍るもの。気を引き締めよう」

 その目は穏やかでありながら、底に深い闇を宿していた。


 左近は黙して立ち上がる。

 月光がその頬を照らし、幼さの残る顔に老練な影を落とす。

 「影は月に従う……ゆえに、我らもまた歩むだけよ」


 その声音には、死を恐れぬ覚悟と、どこか諦念めいた静けさがあった。

 彼らにとって“出立”とは、すでに“終わり”の始まりでもある。


 その夜。

 月は薄雲を裂いて姿を現し、山の稜線を白く染めた。

 春とは名ばかりの冷気が谷を吹き抜け、木々を鳴らす。


 朧月の三人は、誰にも見送られることなく山を下りた。

 俊政は風のごとく駆け、足跡を残さず。

 勘解由は霧に溶けるように姿を消し、気配すら残さず。

 左近は沈黙の刃を腰に、ただ月を見上げていた。


 その背には、誰よりも重いものがあった。

 それは“誇り”か、“罰”か、“義”か――彼ら自身にも定かではない。

 だが、影に生きる者には、それを選ぶ権利すらなかった。


 春まだ浅き甲賀の山々に、冷たい夜風が吹く。

 風は三つの影を押し出すように背を押し、霧を裂いて道を作る。

 “無音”という名の闇との戦いが、今、静かに幕を開けた。


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