第六十話 夜陰を裂く一筋の刃
六角定頼の寝所には、静寂だけがあった。障子の外で虫が鳴き、竹の葉が夜風にさざめく。風は冷たく、戸の隙間から入る冷気が畳の匂いをかすかに引き締める。
夜更け――この時刻、城は呼吸を緩め、侍も女中も油断して眠りに落ちる。
――ただ一人、忍びだけを除いて。
六角定頼は布団に身を横たえ、静かな寝息を立てていた。その枕元に、気配も音もなく、一つの影がすべり込んでいた。闇は重く、しかしそこにわずかな光が差した。
短刀の刃先が、六角定頼の喉元にそっと押し当てられていた。一本の髪のように細い距離。ほんの一寸動けば、血潮が噴き出す。
それでも定頼は、目を覚ますまで気づかなかった。この国でも指折りの大名が、夜半の寝床で、乞食一人に首を取られかけていたのだ。
「……」
闇のなかで、白い一筋の光がかすかにきらめいた。短刀は月光を薄く反射し、冷えた金属の匂いを吐いた。畳の縁に落ちた影が歪み、障子の向こうの竹林が薄い音でざわめく。
土埃や城の古い油の匂いが混じり、時間ごとに重くなる夜の密度が、刃の存在を際立たせた。
「……起きよ」
掠れた声が、闇の中で低く鳴った。定頼はその声に、反射的に目を開いた。暗闇に浮かぶ黒布の顔――その目は老獪な獣の眼差し。長き修羅場をくぐり抜けた者のみが持つ冷徹な光が、瞬時に室を支配する。
「な……貴様……何者だ」
定頼が声を上げようとした瞬間、刃が皮膚をわずかに裂いた。細い血の筋が喉を伝い、夜の空気に赤がひとすじ滲む。
「声を上げれば、一息のうちに首を落とす」
梵寸――いや、この時の名は「無音」。
超一流の忍びとして、名を馳せた梵寸の死に戻る前の異名であった。
「名乗る名など、風と共に消えるものよ。……今宵は“無音”と覚えておけ」
その声は冷たく、波立つことがない。深夜に突然目覚め、喉に刃を突きつけられているというのに、定頼はさすが戦国の梟雄、眉ひとつ動かさなかった。
「何用だ、無音とやら」
「延暦寺の件――法華宗を攻めるな」
定頼の瞳がすっと細まる。
「……延暦寺、だと」
「三度、機会をくれてやる」
「初めは今宵」
無音は淡々と続ける。声に情動はなく、言葉だけが冷たく刺さる。畳の上に置かれた短刀の先端が、かすかに震えた。
障子越しに差す月が二人の輪郭を薄く描き、夜風が障子を揺らして紙が微かに擦れる音がした――それはまるで時間の経過を数える鐘のようでもあった。
「二度目は、三日後だ。その時も延暦寺に援軍を出さぬ、と約定を書かぬなら――三度目に来たとき、貴様の首を刎ねる」
夜風が障子をわずかに揺らす。定頼の寝室に漂うのは、まるで死神が通り過ぎたような静けさだった。火の消えかけた御燈の匂い、寝所奥の箪笥から染み出す古い檜の香り、すべてが刃の前で凍りつく。
「お主、己が何を言っておるのか分かっておるのか。我は六角定頼ぞ。忍び一人の脅しで、軍を止めるとでも思うか」
定頼の声には怒りも恐れもなく、ただ大名としての冷たい威厳があった。無音は鼻で笑った。
「ふははは……威を振るうのは勝手よ。されど、貴様の寝首を掻くは容易い。
今夜が証ぞ」
定頼は、喉元の冷たい刃を見下ろした。この忍びは――本気だ。黒布の隙間から見える、若い顔立ちの奥に宿る老獪。どこか歴戦の風格が彼の所作に染み付いている。匂い立つのは古い戦場の記憶と、若さに似つかわしくない冷徹さであった。
「……三度、機会をやると言ったな」
「うむ。三度目に、文を見せよ。援軍を出さぬと、貴様自らの手で書け。でなければ……その首、この世から消す」
無音は刃を静かに引き、気配を霧のように消した。まるで最初から誰もいなかったかのように。
消え際に残ったのは、畳にこぼれたわずかな血の匂いと、障子に残された薄い指紋の気配だけだった。
六角定頼は数息遅れて、ようやく吐息を漏らした。「……面白い」その口元には、薄く、獰猛な笑みが浮かんでいた。城主としての誇り――そして何処かで戦を望む匂いが、彼の言葉に含まれていた。
◇◇◇
甲賀衆の拠点・五十三家の会議。夜明け前、甲賀の山深く、忍びの里の会議所には五十三家の惣領たちが集まっていた。囲炉裏の火が静かに揺れ、煤で黒ずんだ梁に影が踊る。朝霧が谷を満たし、外の世界はまだ薄い灰色に包まれている。だが里の内は、怒気と疑心が満ちていた。
「……六角様の寝所に、夜半、無音なる者が侵入したと申すか」
「間違いありませぬ。六角様の御寝所に忍びが忍び込み、首元に刃を突きつけたとか」
ざわめきが広がった。甲賀衆にとって、六角家の寝所は“破られてはならぬ”象徴だ。それを破られたことは、忍びの誇りを踏みにじられたに等しい。
「甲賀の守りを抜いたというのか……あり得ぬ」
「いや、事実だ。望月悠馬が証言している」
「悠馬じゃと? あの怠け者がやらかしたか」
頭領席に座るのは、甲賀五十三家を束ねる惣領――望月出雲守。威厳ある声で、全員のざわめきを静めた。
「……愚か者ども。恥を知れ」
沈黙が落ちた。囲炉裏の火は赤く、顔に刻まれた皺を深く照らす。ひとり、また一人と視線が床に落ちる。里で重んじられるのは、技のみならず綱紀である。外部に技が漏れることは、里の根幹を揺るがす。
「この里を抜け、六角殿の寝所に至るまで、いくつの罠があった? いくつの見張りを置いた?」
「……十に及びまする」
「そのすべてを、ただ一人で破られたと? 悠馬の責任ばかりではあるまい。我ら甲賀衆全体の問題ぞ」
望月の声は怒りを押し殺している。彼の右には山中政重、左には多羅尾光俊、箕作新右衛門ら甲賀の名家が並ぶ。彼らも皆、唇を噛み、うつむいていた。討つべきは侵入者だか、まず討つべきは己らの不手際だ。
「我ら忍びの矜持が踏みにじられたのだぞ」
「望月殿……罠を倍増し、見張りも二倍に増やすべきです」
多羅尾が進言した。声は低く節がつき、言葉の端に焦りが滲む。
「それだけでは足りぬ。……奴は、我らの術を知っておる。幻霧陣は破られたことがない強力な陣法だ」
山中が低く呟く。その呟きに戸惑いが混じる。甲賀の術は戒律と継承により守られてきた。もし術を破られたのなら、可能性は二つ――外からの強者か、内に在りし裏切り者。
「まるで……甲賀の内情を熟知しているかのように」
その言葉に、一同の顔色が変わった。甲賀の術を熟知した者――それは、甲賀衆の中にしかいないはずなのだ。
「……内に、裏切り者がいるのか?」
「いや、それとも……」
望月は目を細めた。囲炉裏の火が、怒りに煮えたぎる甲賀衆の長老たちの影を赤く照らしている。里の空気が重く、冷たい決意が輪を描いていく。
「どちらにせよ、次に奴が現れたとき……逃がすな。生かして帰すな」
その言葉は簡潔で、しかし里を震わせる雷鳴のように響いた。外套をまとった者、畳に膝をついた者、いずれも覚悟を固める。その刻、甲賀の山は静かに息をひそめ、次の夜へと牙を磨き始めた。
――無音の刃は消えた。だが、その余波は里の心を深く穿った。




