第六話 乞食をなぎ倒し、阿修羅の片鱗
「二人とも、早く退け!」
お梅の叫びが、森の空気を裂いた。次の瞬間、彼女は後ろにいた梵寸と華を思い切り突き飛ばす。
「きゃっ!」
華はその勢いのまま、草むらへ転がり込んだ。
「お梅!」
梵寸は反射的にお梅の手首をつかみ、逆にその体を草の中へ押し込む。
「きゃっ!? 梵寸、待って――!」
伸ばされたお梅の指先は虚しく空を切り、そのまま姿を草むらへ隠した。
残されたのは、十二歳の少年の姿をした梵寸と、敵意をむき出しにした男――山田源次郎。
「ちっ……小僧ひとりか」
源次郎は嘲笑を浮かべ、手にした木刀を構えた。獲物を仕留めることに一片のためらいもない眼差し。
梵寸の胸の奥で、七十九年分の経験が静かに熱を帯びる。
――わしはすでに一度死んだ身。いまさら命惜しむ道理もあるまい。
「来い」
低く、地を震わせるような声が梵寸の口から漏れる。十二歳の外見に似つかわしくない迫力に、源次郎の眉が一瞬だけ動いた。
だが、木刀は振り下ろされる。額を狙った一撃。
その刹那――梵寸の体は音を置き去りにして前へ弾けた。
「ぐっ……!」
拳が鳩尾を貫き、源次郎の口から血反吐が飛び散る。
続けざまに膝が背に食い込み、体勢を崩した源次郎は地面に押し伏せられた。
抵抗する間もなく、瞳は裏返り、力が抜けていく。そして次の瞬間、股間から温かな液体がにじみ出た。
「ひっ……ひぃあああ!」
「ば、化け物だ!」
残っていた二人の乞食が恐怖に駆られ、失神した源次郎を引きずりながら逃げ出す。草をかき分け、転がるように姿を消した。
静寂。鳥の鳴き声すら止み、森は息を潜めている。
草むらから顔を出したお梅と華の目が、大きく見開かれていた。
「梵寸……! あんた、いつの間にあんなに強うなったんだい!」
お梅の声は震えながらも、どこか興奮を含んでいた。
華はその場にへたり込み、荒い呼吸を繰り返す。額には冷や汗が浮かび、兄を凝視していた。
梵寸は口の端をわずかに上げた。
――今はまだ、真実を明かす時ではない。わしが過去に戻ったなど言えば、疑念と混乱しか生まぬ。
「実はのう……」
梵寸はわざと芝居がかった仕草で、右手のひらで両目を隠し、声を低くした。
「わしは武の力を隠しておった。皆を驚かせようと思うてな」
「え……?」
華の目が細まり、兄を見つめる。
「そんなの……変だよ。本当に、にいになの?話し方も前と違うし」
怯えとも戸惑いともつかぬ声が、か細く落ちる。
梵寸の胸の奥で、小さく息が詰まった。だが顔色ひとつ変えず、惣領の威をまとって頷いた。
「無論じゃ。わしは梵寸よ」
見た目は十二歳の少年。だがその眼差しは、甲賀衆惣領として七十九年を生き抜いた者のものだった。
――この時代を生き直す。命尽きるその日まで、再び。
森に吹き込む風が、三人の間に緊張と決意を残して通り抜けていった。




