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乞食からはじめる、死に戻り甲賀忍び伝  作者: 怒破筋
第二章 天文法華の乱ーー燃えゆく京
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第五十九話 月隠れの乞食忍び

 夜の観音寺城は、まるで夜そのものが息を潜めているかのようだった。

 山裾を撫でる風はぬるく、三月の湿りをまとっている。虫の音ひとつなく、遠くで犬の遠吠えが一度だけ響いた。

 空は雲を抱き、月は半ば霞に沈んでいる。光が差さぬその闇の中、草の露が音もなく滴り落ちた。


 城門の影に、一人の少年が立っていた。

 痩せこけた頬。擦り切れた着物。裸足の足裏は泥と砂にまみれている。

 誰が見ても、ただの乞食にしか見えぬその少年――梵寸。


 かつて甲賀を束ねた忍びの長にして、七十九で死を迎えた老忍。

 だが今は、死に戻り、十二の肉体にその魂を宿す流浪の乞食である。


 眼前にそびえるは、六角定頼の居城・観音寺城。

 甲賀忍びが守りを固める、鉄壁の砦。

 その布陣を知り尽くす者が、ほかならぬ梵寸であった。


 「……皮肉なものよの。かつて我が手で築いた守りを、いまは乞食の身で破らねばならぬとは」


 吐息に混じる笑いは、苦味を帯びていた。

 誇りも名も、今の彼には意味をなさない。

 ただ、生きるために。未来を変えるために。

 越えねばならぬ壁がある。


 「甲賀の者どもよ。今宵、その術を破るは――乞食一人ぞ……ふははは」


 黒布で顔を隠し、足元の泥を踏みしめた瞬間、影が掻き消えた。


 「甲賀忍法・第一ノ型――闇影潜行」


 己の気配を完全に断ち、夜気と同化する秘術。

 踏みしめる音も、衣擦れの気配も、闇に呑まれて消えた。


 幼き体とは裏腹に、その動きは老練だった。

 壁を音もなく登り、屋根を滑るように越え、境内へと降り立つ。

 石畳の上、月光を裂くように着地した瞬間――白い霧が足元から這い上がった。


 「……幻霧陣か」


 霧はねっとりと絡みつき、視界を奪う。まるで意思を持つ蛇のように、這い寄ってくる。

 甲賀衆が誇る防陣の一つ。呪符を核に霧を生み、侵入者の目と耳を奪う幻術。

 その霧に迷い込んだ者は、己の影すら見失い、死へと誘われる。


 だが梵寸は、この術を誰よりも知っていた。

 なぜなら――幻霧陣を張ったのは、かつての自分だからだ。


 「術の核は、風に脆い。……よう覚えとるわ」


 息を整え、丹田に力を込める。

 空気が震え、足元の落葉が舞い上がる。


 「甲賀忍法・第一ノ型――風裂迅刃!」


 風が唸り、刃のように駆け抜けた。

 霧が裂かれ、呪符の陣が軋む。

 瞬く間に白い霧は散り、石畳と罠の列が姿を現す。


 「懐かしい匂いじゃ……」


 湿った苔、油の焦げた臭い。

 記憶のままの配置。記憶のままの罠。

 仲間が守る砦に、今は乞食の身で忍び込む。

 笑う余裕などない。ただ、胸の奥に冷たい痛みが走る。


 ――あの頃の仲間も、この城も、すでに遠い。

 死んだはずの己が、過去と向き合う夜。


 梵寸は一歩、庭を踏みしめた。

 その刹那、足元が崩れた。


 「甲賀忍法・隠槍の奈落」


 土に偽装された床。その下には無数の槍。

 一歩でも誤れば串刺しの罠。


 「甘いのう」


 膝を緩め、音もなく宙を舞う。

 落とし穴を越え、静かに着地。

 幼き体とは思えぬ老練な動きだった。


 「わしが教えた罠に、わしが落ちる道理はあるまい」


 通路に入ると、空気が変わる。

 湿った木の壁。油の匂い。圧力板の並び。

 すべてが、かつての梵寸の設計によるものだ。


 「甲賀忍法・矢裂狭衝」


 壁の奥に、無数の矢が仕込まれている。

 一つ踏み板を踏めば、一斉に放たれる仕掛け。逃げ場はない。

 梵寸は小さく笑みを浮かべた。


 「……剛力無双」


 丹田の気を巡らせ、肉体を鋼のように硬化させる。

 左右の壁が唸り、無数の矢が放たれた。

 音を立てて梵寸に突き刺さる。

 だが、砕け散ったのは矢の方だった。


 木片が宙を舞い、矢羽が月光を反射して散る。

 梵寸の肌には、かすり傷ひとつない。


 「……一月前なら、血を吐いて倒れておったろうな。ふん、よう鍛えたものよ」


 独り言のような呟きに、疲労と老いの影が滲む。

 死に戻っても、身体は子供。

 記憶と肉体の落差が、今なお彼を苦しめていた。


 ――何度、生き直せば救われるのか。

 己の過去と戦う夜は、あまりにも長い。


 通路の先に静寂が降りた。

 六角定頼の寝所――その手前だ。


 梵寸は天井を見上げ、屋根裏へ身を滑らせた。

 雇い主の寝所の手前の屋根裏には、必ず護衛がいる。

 それが甲賀のやり方。


 ――やはり、いた。


 梁の上に、黒装束の男がうたた寝をしていた。

 「……ふっ。悠馬であったか」


 望月悠馬。甲賀五十三家の中でも変装に長けた若き忍び。

 だが怠け者としても有名だった。

 昼は木の上で居眠り、夜は子供に忍術を教えるふりをしては怠ける。


 「こりゃ悠馬、任務を怠けるなと何度言えば分かるのじゃ……って今は惣領ではなかったか」


 かつての癖で、思わず昔の口調になる。

 梵寸は忍び寄り、音もなく距離を詰めた。


 「……!? な、何者――んぐっ!」


 悠馬が声を発するより早く、梵寸の指が首筋を突く。

 気脈を乱し、声を封じる。


 「声も出せぬであろう。怠け癖の報いじゃ。後で望月出雲に大目玉を食らうがよい」


 にじり笑いを浮かべ、片口を吊り上げる梵寸。

 幼い顔立ちに、老忍の影が落ちた。


 悠馬は「ん〜! ん〜!」と唸り、もがくばかり。


 「ふはは……相も変わらず間抜けな顔よ」


 静かに気を断ち、悠馬を眠らせた。


 ――月光が障子を透かし、白く差し込む。

 灯りはない。それでも部屋の輪郭が浮かぶ。

 ここから先には罠がない。

 つまり、敵の侵入を想定していないということだ。


 「懐かしくも、今はよそ者よ……よかろう」


 一歩、踏み出す。

 その影が月光に伸び、夜そのものが動いたように見えた。


 「六角定頼――乞食一人、参るぞ」


 その声は闇に溶け、観音寺城の奥で静かに響いた。


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