第五十八話 天才の光、夜明けに宿る
夜明け前、山の稜線を白い靄がゆるやかに覆っていた。
竹林の奥からは、湿った土の匂いと、朝露を踏みしめる足音だけが響いている。
「はぁ、ひぃ……っ! 走り込みに慣れてきたって言っても……重り、絶妙に辛い程度に増やしてくるよな……!」
小吉が肩で息をし、地面に手をつく。背の砂袋は昨日より重く、足首には鉛玉。汗がぽたぽたと土に落ち、小さな水たまりを作った。
「ほっほっほ、小吉よ。昨日、おぬしが呼吸をわざと乱しておったことくらい、このわしに見抜けぬはずもなかろう」
梵寸が笑う。声は柔らかいが、甲賀惣領の眼差しは鋭い。
軽く頭を小突かれた小吉が目を瞬く。
「え、うそ……! 気づかれてたのかよ!」
「このわしを誰と心得る。天境の境地にある達人ぞ。呼吸ひとつで嘘など手に取るように分かる」
鼻で笑うその声音に、山の冷気が混じった。
「にいに、華はもう少し重くしてもいいよ」
華が淡々とした声で言う。彼女の背にも砂袋があるが、疲労の色は見えない。
月呪ノ業の陰気も、役小角の里で授かった星辰の呪印によって、いまは静かに沈んでいた。
この少女は一言も泣き言を吐かず、この地獄の修行をやり抜いている。
――入れ墨を、どうしても消したい。その執念だけが、華を支えていた。
「ふむ……わしは華の入れ墨は芸術的と思うのだがな。なあ、小吉よ」
梵寸の何気ない言葉に、小吉は即座にうなずく。
「そ、そうだよ! 俺もカッコいいと思……う、うっ!」
次の瞬間、華の目に殺気が宿った。
その赤い光は、冬の刃のように冷たく、肌を刺す。小吉の喉がひゅっと鳴る。
「華は、絶対絶対絶対! 体の入れ墨を消すの! 邪魔しないで!」
凍えるような声が、朝靄を裂いた。
梵寸と小吉は視線を逸らし、竹の葉がさらりと鳴った。
◇◇◇
昼。竹林の広場には緊張が張りつめていた。
梵寸、小吉、華、経心――四人が向かい合い、木刀を構える。経心は長い薙刀を手にしていた。
号令などない。ただ、風と呼吸が合った瞬間、木刀が閃いた。
剣と剣がぶつかり、乾いた音が竹の間に響く。防御の甘さは死に直結する――そんな稽古だ。
「ぐっ……!」
小吉が経心の一撃を受け、肩口から血を流して倒れる。
だが彼は止まらない。地に伏しながらも腕を振り上げ、再び斬りかかる。
経心も容赦しない。親友の血を見ても、眉一つ動かさぬ。敵が傷つけば、それは畳みかける好機だからだ。
小吉が経心に一本取られ、華と変わる。
梵寸は腰袋から竹筒を取り出し、無言で投げた。中には青く光る霊薬。
「これを塗れ、小吉。痛みは後でまとめて泣け」
「う、うんっ!」
小吉は唇を噛み、焼けるような痛みに耐えながら霊薬を塗る。血が止まり、皮膚がゆっくり閉じていく。
それは役小角の秘伝書にも記された、禁断の霊薬であった。
一方、華は額に血を流しながらも、経心の薙刀を打ち返していた。
「負けて……負けてなるものかぁ!」
その叫びは、華の小さな体からは想像もつかぬほど力強い。
「良い気合である。華は境地の高いくノ一になる才がある」
薙刀が唸りを上げ、空気を裂く。経心の一撃は重く、経験の差は歴然――それでも華は一歩も退かず、歯を食いしばった。
「……よし、小吉、華。まだ立てるな? 今度はわしと経心、華と小吉で存分にやり合おうぞ」
「師匠! 拙僧に一手頼みます!」
経心は梵寸とやり合ってから、かなり強くなっていた。
「もちろんだ!」「うん!」
華と小吉も強くなれる希望を胸にやる気である。
梵寸の声が風に溶ける。四人は再び構え直した。
竹林を渡る風がざわりと鳴り、稽古の音だけが響いた。
◇◇◇
「みんなー! お昼にしようよ!」
山道を下る声が響く。風呂敷を抱えたお梅が駆けてきた。川風が髪を撫で、花のような香がふわりと広がる。
彼女が広げた布には、握り飯とおかず、湯気立つ茶碗が並んだ。遊郭の厨房から持ち出した温かな食事だった。
「お梅さん、いつも悪いのう」
梵寸は頭を下げた。その表情には、かすかな負い目がある。
――華を救うために、彼女を巻き込んだあの日から、梵寸の胸には小さな棘が残っていた。
「いいってさ。この間の件で、あたしの地位が上がったのさ。お給金も増えたんだよ」
お梅が得意げに笑うと、梵寸と華は顔を見合わせ、思わず吹き出した。
「吉岡派はおぬしに大きな借りを作ったのう」
梵寸が握り飯を頬張る。米の甘みと竹の香りが口に広がる。
「もっといいことにね、地位が上がったおかげで、お客の相手をしなくてよくなったんだ。これからは遊女をまとめる係さ」
華は嬉しそうにお茶を受け取り、経心は行儀よく静かに食べ始めた。
お梅は自分の分は用意せず、ただ四人の様子を見つめて微笑んでいる。
「……ありがと、お梅さん!」
「はいよ、華。たんと食べな」
その光景は、竹林の中で一瞬だけ、戦国の影を忘れさせた。
◇◇◇
夜。山奥の庵。
灯火が揺れる室内で、梵寸、小吉、華の三人が座禅を組んでいた。
経心は寺に戻っているため、今はこの三人だけだ。
「華、小吉。息を整えよ。心を静め、丹田の奥を見よ」
梵寸の声が低く響く。外では虫の声がリーンと鳴り、静寂が染み渡る。
だが次の瞬間、その静けさを破る声があった。
「にいに! にいに、できたよ!」
華の腹の丹田がふわりと光を帯びた。青白い光がろうそくの炎を照らし、炎が小さく揺れる。
次の瞬間、光は爆ぜるように強まり、周囲の者は思わず目を覆った。――獅子神光。境地を突破した者のみに現れる、神気の輝きであった。
「……見事じゃ、華。よう頑張ったな」
梵寸の声は静かだが、確かな喜びを含んでいた。
華の瞳が潤み、幼い腕で梵寸に抱きつく。
「にいに、ありがとお〜!」
その光は小さくとも、本物だった。
通常なら何年もかかる神気の宿りを、わずか一月でやってのけた。
梵寸は目を細め、胸の奥でつぶやく。
――月呪ノ業は才能の星。己の神気に喰われ、十歳で死ぬ宿命を持つ娘。
甲賀の記録でも、生き延びた例はない。
華は、この乱世を生き抜けるのだろうか。
「くそっ……俺はまだなのに!」
小吉が拳を握る。唇を震わせ、悔しさを噛み殺した。
華より先に修行を始めたというのに、神気はまだ宿らない。
「ほっほ、小吉よ。そなたの修練は無駄ではない。必ず時は来る。わしを信じろ」
「……はい! 師匠を信じて、頑張るよ!」
炎が揺れ、三人の影が壁に伸びた。梵寸の瞳に、小さな希望の火が灯る。
◇◇◇
一方その頃――京の都では、夜風の中を噂が駆けていた。
浮浪衆が流す声が町人の口に乗り、闇に広がる。
「延暦寺が、法華宗を攻撃するらしいぞ」
「とうとう始まるのか……」
法華宗の僧・朗源はその噂を何度も耳にし、ついに確信した。
京の二十一の寺院に命が下る。
漆喰壁の強化。瓦屋根の改修。石垣と土塁の築造。
水濠と井戸の設置、防火帯の整備、隔壁の新設。
――火矢に備えるための、徹底した防備だった。夜ごと響く槌音が、戦乱の足音を告げる。
「……これならば、守れるやもしれん」
山の稜線から京の灯を見下ろし、梵寸が低くつぶやいた。
その瞳には、もう確かな戦の影が宿っていた。
「よし、次の作戦にかかるとしよう。次は六角じゃ」
夜風が梵寸の黒髪を揺らす。
天文法華の乱――その幕は、もう静かに、確かに上がろうとしていた。
忍びたちの戦いは、いよいよ次の段階へと移ろうとしていた。




