第五十七話 月下、鬼蛇丹を喰らう夜
夜気は冷たく、湿り気を帯びていた。山の向こうから吹き抜ける風が、梵寸の頬を撫でる。
天文法華の乱、火種はすでに広がっている。延暦寺の僧兵二万は、すでに戦を構える気配を見せていた。これに加え、六角定頼が援軍二万を出せば、戦の潮は一気に傾く。……それだけは、何としても避けねばならぬ。
「六角定頼を抑えるしか、ない」
梵寸は低く呟いた。
六角定頼は、近江一円に睨みを利かせる大名。延暦寺の僧兵の次に大きな兵力を誇る。彼が動けば、戦の規模は膨れ上がり、火は京都の隅々にまで燃え広がる。
だが、幸いにして、六角定頼はことを荒立てたくない様子だった。延暦寺天台座主・良淳と法華宗の本圀寺の住持(住職)・朗源の間に入り、仲裁をして和睦の道を模索している。
ならば、そこに付け入る隙がある。
「脅しだ。寝首をかけるのは容易い」
六角定頼の寝室に忍び込み、「いつでも殺せる」と知らしめれば、援軍を出す気など失せるはずだ。たとえ権勢を誇る六角家といえど、自分の喉元に何度も刃を突き付けられた恐怖には逆らえまい。
──ただし、問題は一つ。
六角家は甲賀衆と同盟関係にある。そして、六角定頼を守るのも甲賀衆なのだ。
つまり、梵寸は甲賀衆に入る今後の仲間を裏切る形で六角の首を握ることになる。情を捨て、影の道を貫く覚悟が必要だった。
梵寸は三度、六角定頼の寝所へ忍び込む策を練っていた。
一度目と二度目はただの牽制。
三度目──本番だ。
三度目には、甲賀衆も面子を保つため、最強の守り手をつける。それが、現在の甲賀衆惣領・望月である。
「……望月」
梵寸の脳裏に、あの男の姿が浮かぶ。
望月は七つある境地のうち、第四段階──極境上位。その段階の忍者は羅刹といわれている。それは海千山千の強者にして、影の頂きに近い男だった。
一方の梵寸は、第六段階──天境下位に至る実力者ではある。その段階の忍者は阿修羅といわれるが、それは七十九歳まで生き、幾百の戦場を渡り歩いた「経験」があってのこと。今の肉体は十二歳。丹田の力は、極境下位が限界だった。
役小角の隠れ里で修練を積み、第三段階──覇境上位を一度は極めた。だから成長は早い。しかし、それでも望月を倒すには力が足りない。無理をするとまた、丹田が傷ついてしまう。
境地は努力だけで上がるものではない。天賦の才、修練、そして運──そのすべてが噛み合って、ようやく一段上がる。そんなもの、短時間で成し遂げられるはずもない。
だが、道は一つだけ残されていた。
「……仙丹だ」
この世に七つしかないとされる仙丹。そのひとつ──鬼蛇丹。
それを口にすれば、境地が最低でも一段上がる。望月に並ぶ極境上位に届く可能性があるのだ。
役小角の隠れ里で仕留めた大蛇が持っていた宝。
一生涯、拝むことすら叶わぬ仙丹を、梵寸は手のひらに乗せていた。
「貴重な物だが……もったいぶっている場合ではないのう」
掌の小箱から取り出した深緑の玉は脈動し、生き物のように熱を帯びていた。梵寸はゆっくりと口に含む。舌の上で溶ける瞬間、世界が歪むような感覚が全身を走った。
「ぐおおおおおおっ!」
烈火のような熱が肺を焼き、筋肉は鋼のように引き伸ばされる。骨の奥では悲鳴が響き、十二歳の体は限界に達しようと膝がガクンと崩れそうになる。心臓は破裂しそうに高鳴り、血管は膨張し、脳裏は痛みと恐怖に支配された。七十九年の戦場の記憶――仲間が死に、自らの命が尽きる直前まで影を生きた日々――すべてが今、痛みとなって襲いかかる。
「く……くうっ! これが……仙丹の力……吸収し、我力となれ!」
梵寸は意識を丹田に集中する。しかし神気は暴走し、庵の木戸が吹き飛び、瓦は裂け、風が唸り、周囲の草木が巻き上げられた。夜空には白い稲光のような光が散り、空気は破裂の余韻で震える。全てが破壊の渦に飲み込まれるかのようだった。
「は……はああっ! 死ぬ……死ぬかもしれん……!」
内臓が引き裂かれるような痛み、筋肉が裂ける感覚――それでも梵寸は七十九年の経験で体を押さえ込み、神気を丹田に取り込み続けた。意識は混濁し、過去の死の記憶が次々と襲う。だが痛みの中で神気は次第に反応し始め、暴走は制御へと変わっていった。
「はぁはぁ……もう一息……我は甲賀衆惣領・梵寸、忘れるな!」
指先に力が宿り、足先が地を蹴る。全身の神気が一つにまとまり、爆発のように吹き荒れた力が体と融合する。全身に電光が走り、十二歳の体が七十九年の戦士の魂と仙丹の力を背負った圧倒的存在となった。
膝をついたまま、力を振り絞り静かに立ち上がる。
「……ようやく吸収した……本当に死ぬかと思ったぞ……境地が予想より上がった……これが、伝説の仙丹の力か」
外に踏み出すと、満月が夜空に浮かぶ。風が頬を撫で、草木は爆発の余韻で揺れた。夜気は鋭く肌を刺す。
「望月出雲……久方ぶりに、骨のある相手とやり合える」
声は穏やかだが、胸の奥で燃え上がる闘志は烈火の如く、死線をくぐり抜けた者だけが知る高揚を秘めていた。十二歳の体に宿る七十九年の戦士の魂と激烈な仙丹の力――月下の夜に、梵寸はその全てを背負い立ち尽くしていた。




