第五十五話 怨嗟の火を裂き、風鴉は夜を駆ける
炎が本堂を舐め上げた。
乾いた柱が爆ぜ、夜空が真紅に染まる。
「な、なんだこの火はッ!?」
「消せっ! 本堂が焼け落ちるぞ!!」
怒号が飛ぶ中、松本久吉を囲んでいた僧兵五十名の陣形が、炎に呑まれて崩れた。
――それこそが狙い。
炎は梵寸の仕掛けた“影を生む幕”だった。
炎の向こう。
梵寸は静かに息を吐く。
冷気が肺を刺し、鼓動が一拍だけ鳴る。
「――甲賀忍法、第三ノ型。風鴉神速」
その声と同時。
影が消えた。
靴音も、衣擦れも、呼吸も――夜に溶けた。
地に、鴉の羽がひらりと落ちる。
その瞬間、世界が“止まった”。
僧兵たちは周囲を見回す。
だが、誰も見えない。
夜そのものが意思を持ち、動いているかのようだった。
「……な、何か……今、風が……?」
「気のせいであろう。誰もおらぬ」
梵寸は風になった。
炎と影の狭間を、わずか一呼吸で抜ける。
僧兵の耳元を風がかすめた。振り向く。――誰もいない。
次の瞬間。
縄で縛られた久吉の背後に、梵寸が“立っていた”。
逆光の中、影が滲み出すように。
「――行くぞ」
一閃。
縄が断ち切られ、久吉の身体が宙を浮く。
次の瞬間、闇が疾走を始めた。
誰も見ていない。
黒い風が、炎の中を駆け抜けた。
松明が揺れ、鴉の羽が宙に舞う。
「……っ!?」
「おい、久吉がいないっ!!」
「囲んでいたはずだぞ!? どこへ消えた!?」
「ありえん……人が……煙のように……!」
僧兵たちは混乱した。
“神速”――それはただの速さではない。
視覚も思考も奪う、存在を“見失わせる”技。
梵寸は屋根へ跳んだ。
瓦を蹴り、闇夜を駆け抜ける。
炎が背を照らし、煙が天へ昇る。
(――誰も、わしを見られぬ)
壁を越え、屋根から屋根へ。
足音はない。一歩ごとに死角を読み、風向きを掴む。
敵の知覚すら、欺いていく。
久吉は肩に担がれたまま、息を呑んだ。
「……速……っ……一体……何が起きたのだ……」
十数息。
延暦寺は遠く、京の町は静まり返る。
梵寸は潜伏地に滑り込み、久吉を静かに降ろした。
「……すまぬ、助かった」
まだ声が震えている。
梵寸は黒布を外し、夜気を吸う。
久吉の目が見開かれた。
梵寸が薄く笑う。
「……お……お前は……乞食の……!」
夜風に、鴉の羽が舞った。
甲賀の忍びの刃――怨嗟の炎を裂き、夜を翔け抜ける。




