第五十四話 血に咲く法(のり)の声
夜の比叡を、ひとつの梵鐘がゆらりと撫でた。
その響きは山の闇を震わせ、霧に沈む伽藍を淡く包み込む。
風が杉の梢を渡り、松明の炎が細く揺れた。
梵寸はその音に耳を傾け、胸の奥で呟く。
「争いは、言葉で止めるもの……それが、我ら僧の務めだ。」
だがその静寂を裂くように、夜が叫んだ。
「ぐあああああッ!」
梵寸は影のように走る。
苔むした石段を音もなく駆け、松明がうねる方へ身を翻す。
寺町の奥、血のにおいが風に混じっていた。
赤く歪んだ炎の輪の中――ひとりの男が縛られていた。
縄に締め上げられ、衣は裂け、血が袖を濡らしている。
だが、その背筋はまっすぐだった。
松本久吉。
かつて延暦寺を論破し、法会を沈黙に包ませた法華宗の僧。
「狂僧」と呼ばれながらも、民に慕われた男だ。
その前に立つのは、延暦寺の華王房。
かつて松本問答で敗れ、地位を失い、今や怒りと屈辱だけを支えに生きる男。
その手には、革の鞭が握られていた。
「松本問答の屈辱――今宵こそ晴らしてくれようぞ!」
華王房が吐き捨てる。声は焼け焦げたように荒い。
鞭が唸り、夜気を裂いた。
ぱしり――乾いた音。
久吉の頬を血が伝う。
だが、彼は目を閉じ、笑んだ。
「……また“怒り”で法を説くか。」
その声は低く、静かであった。
「それでは、仏も耳を塞ぐぞ。」
「貴様ァ!」
華王房が怒号を放つ。
「我を侮るか!」
久吉は目を細め、淡々と答えた。
「侮りではない。“怒りの法師”を、ただ見たままに申しておる。」
「黙れ、外道め!」
華王房の手が震え、再び鞭を振り上げる。
「法とは力だ! 力をもって守らねば、乱世は終わらぬ!」
久吉の声が、風のように返った。
「力で守る法は、いずれ己を喰らう。」
「戯言を!」
華王房の額に汗が滲む。
「貴様のような理想家が、この世を乱すのだ!」
「理想を笑うのは、現実に屈した者だけだ。」
久吉の声は震えていない。
むしろ血を吐きながらも、その瞳は炎よりも明るかった。
その瞬間、空気が張り詰めた。
松明の炎が一瞬だけ細く揺れ、僧兵たちが息を止める。
「ならば問う!」
華王房が吠える。
「戦で死んだ者を、誰が救う!? 誰がその魂を弔うのだ!」
「――我らだ!」
久吉の叫びが夜を裂いた。
「だが、“祈る者”ではない。“諦めぬ者”が、救うのだ!」
その言葉が、炎の唸りをも止めた。
風が梢を揺らし、火の粉がふわりと舞う。
華王房の手が止まった。
怒気の奥に、わずかな動揺が見えた。
久吉は、血に染まった顔のまま、微笑んだ。
「仏は山にあらず。地に倒れた民の中におる。
血を見ぬ者が、救いを語るな。」
「貴様……」
華王房が震えた声を漏らす。
「それでも僧か……!」
久吉は、ゆっくりと首を横に振った。
「僧である前に、人でありたい。それが我が信仰だ。」
その言葉に、炎がひときわ大きく揺れた。
誰も動かない。
ただ、夜の風が松明を撫でて、火の粉が宙を舞う。
やがて――久吉の声だけが残った。
「法とは、命を縛る鎖ではない。
争いの中で、なお人を信じる心。
それこそが、真の教えだ。」
その声は弱々しく、しかし揺るぎなかった。
鞭が、音もなく地に落ちる。
華王房の肩が震えた。
彼は、己の手を見つめた。
血がついている。誰のものか分からない。
炎の光が彼の頬を照らした。
その瞳には、怒りでも憎しみでもなく――空虚があった。
久吉は息を吐き、静かに目を閉じた。
「……仏の声は、いつも遠いな。」
その声に、誰も返さなかった。
梵寸は、柱の影からその光景を見つめていた。
拳が自然と握られている。
(……この男、言葉で戦を制したか。)
月が雲間から顔を出し、地を照らした。
血の跡が、曼荼羅のように淡く光る。
梵寸は目を細め、低く呟く。
「気に入った。――救ってやろう。」
夜風が、祈りのように山を渡っていった。
その音は、誰の声とも知れぬまま、比叡の空へと溶けてゆく。
梵寸は、柱の影に身を潜めたまま、息を潜める。
僧兵たちはなお沈黙し、誰もが久吉の言葉に打たれたように動けずにいた。
炎が静まり、煙が低く漂う。
(――いま、だ。)
梵寸は月を仰いだ。
薄雲の切れ間から洩れる光が、彼の頬を冷たく撫でる。
その瞳には、僧らしからぬ静謐と、忍の研ぎ澄まされた光があった。
「この火を、導にするか……」
誰にも聞こえぬほどの声で呟く。
袖の中に潜ませた火打ち石が、月明かりを微かに弾いた。
久吉の方へ目を戻す。
まだ縛られたまま、うつむく姿。
しかしその唇には、わずかな笑みが残っている。
梵寸はその笑みを見て、心の内で合掌した。
「法を説く者と、影を歩む者。
……この世には、どちらも要る。」
足音を忍ばせ、闇の奥へと姿を消す。
彼の影は松明の灯をすり抜け、杉林の中へと溶けていった。
やがて、遠くで火の弾けるような音がひとつ。
風が向きを変え、焔のにおいが山を這う。
――比叡の夜が、ざわめき始めた。




