第五十三話 封印の間に吹く風
比叡の夜は、春とはいえ凍えるほど冷たかった。
山の闇は深く、風が梢を鳴らすたびに、仏の影が動くように見えた。
梵寸は天台座主・良淳の書斎の扉の前に立っていた。
堅牢な木戸、三重の封印、符術の結界。
ただの一枚の板が、まるで城郭のように重く息づいている。
かつて一度だけ潜入した記憶が蘇る。
――三十五年後の世界。
その時は、護符の文様が違っていた。
(印が変わっておるな……。封印師を替えたか。だが、理は同じよ)
指先が封蝋をなぞる。掌から淡く光が漏れ、微細な“気”が脈打った。
「……解け」
囁きとともに、封蝋がひとりでに崩れた。結界は泡のように溶け、音ひとつ立てない。
梵寸は息を整え、静かに扉を押す。
中では、良淳と腹心の高僧四名が、密書を囲んで声を潜めていた。
蝋燭の炎が机上の文を照らし、壁に五つの影がゆらめく。
「――園城寺より返答あり。僧兵三千、すでに動員の支度とのことです」
「朝倉は千、興福寺は三千、高野山は五千。皆、呼応しております」
「だが……六角定頼だけは動かぬ。都の戦を嫌い、仲裁を望むと申す」
「定頼が動かねば、この戦は崩れる。何としても約定を取り付けねばならぬ」
その声は冷たく、火の気を含まなかった。
計算と策謀だけが、蝋燭の炎とともに淡く揺れている。
梵寸は柱の影に身を潜め、目を閉じる。
(……三千、五千、そして六角軍二万。すべてが繋がった。ならば――ここで断つ)
懐から小瓶を取り出し、掌に粉をすくう。
指先で印を切り、低く唱えた。
「甲賀忍法・第二ノ型――嵐鴉呼風」
空気が微かに震えた。
部屋の隅で松明が一度だけ揺らめき、風が起こる。
本来は暴風を巻き起こす忍法。だが、梵寸の手にかかれば微風一つで十分だった。
粉末は熱を受け、煙となって部屋を満たす。無色、無臭――ただ静かに、確実に。
「……座主さま、これは――」
若い僧が声を上げかけた瞬間、膝を折った。
呼吸が浅くなり、二人、三人と次々に崩れる。
最後に残った良淳が、焦点の合わぬ目で梵寸の気配を探す。
「ま、まさか……忍び……か……おの……れ……」
その言葉が途切れたとき、松明がぱちりと音を立てた。
梵寸は顔を黒布で覆い、影のように机へと歩み寄る。
机の上の密書には、僧兵動員の全容が記されていた。
六角定頼、園城寺、興福寺、高野山――それぞれの兵数と出陣の刻。
都を焼き、法華宗を一夜にして滅ぼすための計画。
その文字はまるで血のように、蝋燭の光に濡れていた。
「……これが、お前たちの“正義”か。己の利のため、都を焼き、人を屠ると?」
梵寸の声は低く、冷ややかだった。
だがその奥に、怒りと悲しみが沈んでいる。
袖の内から薄刃を抜き、封蝋の縁を静かに裂く。
指先から“気”を流し、紙面の文を淡い光で包む。
光は影を吸い込み、文字は一瞬だけ消えた。
「……これで朗源を動かせる。法華宗が焼かれねば、犠牲は減る」
紙を再び封じ、指先の熱で蝋を固める。
手の跡ひとつ残さず、梵寸は静かに後ずさった。
扉の前で一度だけ振り返る。
闇の中、眠りに沈む僧たちの顔は、安らぎにも似ていた。
梵寸は影とともに廊を抜けた。
夜風が吹き抜け、蝋燭の香が遠ざかる。
山を下りる途中、風が衣を翻し、草木が鳴った。
「乱を止めるための一歩。誰も傷つけず、事を収める……」
梵寸は己に言い聞かせるように呟く。
だが、その声を裂くように――寺町の奥から、叫びが響いた。
「ぐぁあああああっ!」
空気が凍る。
梵寸は風を踏むように駆けた。
石垣の影に身を潜め、光の揺らめく方を覗く。
血と泥にまみれ、全身を縄で縛られている男がいた。
松本久吉――松本問答を起こした僧侶であった
体に深手を負い、目の前にいる僧侶たちを睨みつけていた。




