第五十二話 闇を裂く忍びの刃―法華宗の命運を握る
目の前にそびえる延暦寺の総本山――比叡山は、沈黙すら息を潜めていた。
梵寸は闇に立つ。
十二の童の面立ちに、七十九の老忍の魂が宿る。
その眼は、裏切りと血と策謀の果てを見てきた者のそれであった。
脳裏を焼くのは、天文法華の乱。
燃える法華宗の本拠地・本圀寺。
泣き叫ぶ僧、崩れ落ちる瓦。
信の灯が、鉄火に焼かれて消えていった夜。
「……再び、あの炎を見せはせぬ」
その呟きは、霧に溶けた。
法華宗の兵八千。
対する延暦寺二万、六角軍二万、園城寺三千、興福寺三千、高野山五千、朝倉軍千。
総勢五万二千が包囲する。六倍以上の兵。
勝敗は明白だ。
だが梵寸は笑う。
「寺を城に変えれば、十倍の兵をも退けられる」
問題は――それを、本國寺の貫首にして都の法華宗を率いる朗源に信じさせること。
乞食上がりの童が未来を語っても、笑われるだけ。
ならば証を見せるしかない。
延暦寺の天台座主・良淳が、諸宗を糾合して法華宗討滅を企てている。
その檄文を奪い、朗源に渡す。
それが梵寸の「最初の刃」だった。
◇◇◇
比叡山の夜風は冷たい。
土は湿り、松の葉に露が光る。
遠くで鈴虫が鳴く。だが、山は息を潜めていた。
「……見張りの配置、昔と変わらんな」
梵寸は微笑む。
その足音は、風よりも静かだった。
甲賀の奥伝――無音歩法。
極めれば、己の存在が自然に溶ける。
一歩進むごとに、風の揺れが遅れた。
まるで時間が、彼を避けて流れるようだった。
鈴の罠、踏み板、隠し矢、符術。
僧兵の祈祷が張る結界の波動が、空気を震わせる。
だが梵寸の目には、すべてが見えていた。
葉のわずかな揺れ、石の沈み、空気の流れ。
罠の輪郭が、夜気の中に浮かび上がる。
縄を指先で切り、板を踏まず、光を避ける。
手のひらの気を散らして符の波を撫でると、祈祷の音が一瞬だけ途切れた。
「七十九年の記憶。十二の肉体……すべてが今に集う」
梵寸の影が、闇と一つになった。
僧兵が松明を掲げて通る。
炎の輪の中を、梵寸は通り抜けた。
誰も気づかない。
松明の光は、彼の姿を照らすことさえ拒む。
階段を登る。
板の下には圧力罠。壁には矢筒。天井には火薬玉。
呼吸ひとつ間違えれば、爆ぜる死地。
だが梵寸の歩みは揺らがない。
足裏に感じる気流の変化で、罠の重心を読む。
壁を蹴り、宙を滑る。
袖が風を裂き、矢がその端を掠める。
やがて、奥――朗源の書斎が見えた。
厚い桧の扉。その前に僧侶が二人立っている。
護符を掲げ、沈黙の中で見張っていた。
梵寸は息を潜め、影の中から様子を窺う。
その瞬間――
「――開け!」
荒々しい声が響き、扉が勢いよく開かれた。
中から、血まみれの男が引きずり出される。
松本久吉だった。
僧兵に腕を掴まれ、袈裟は裂け、顔に土がこびりついている。
あまりの唐突な光景に、さすがの梵寸も目を細めた。
が、すぐに呼吸を整える。
「わしは嵌められたのだと説明に来ただけである! そんなわしに暴力を振るうのか!」
久吉が必死に弁明する。
「黙れ! 外道破軍衆の仕業と証もないのに信じろというのか!」
僧兵の怒声が響く。
引きずるように久吉を連行するその僧兵――顔に見覚えがあった。
袈裟を剥がされた華王房である。
その目に宿るのは、激しい怒りと憎悪。
「恥をかかされて左遷となるわしの恨みを、その命で知るが良い! うははははは!」
久吉の顔に血が散る。
「や……止めろ! 命だけは助けてくれ!」
抵抗もむなしく、僧兵たちに引きずられていく。
梵寸は闇の中で静かに眉を寄せた。
(この忙しい時に、何を捕まっておるのだ……)
だが、すぐに思考を切り替える。
――あの松本問答の場で、久吉の隣に立っていた頬に傷のある僧。
わずかに放たれた気配を、梵寸は忘れてはいなかった。
あれは確かに「第三段階の境地」に達した者のもの。
僧侶は基本的に境地は低い。第三段階など、外道破軍衆以外に到達できるものではなかった。
(華王房の袈裟を剥いだあの僧……外道破軍衆の一人であったか)
僧兵たちは、修行の深みに興味を持たぬ者が多い。
ならば、あの場に破軍衆がいたというのは確実。
そして――今、久吉が「嵌められた」と叫んでいる。
(案外、本当かもしれん。ならば――救うか。いや、まずは檄文の奪取だ)
闇の中、梵寸の唇がわずかに動いた。
それは呟きというより、夜そのものへの問いだった。
血と怨嗟の気配が遠ざかる。
比叡の夜は、再び沈黙を取り戻した。
朗源の書斎の扉は閉められ、結界が張られている。
月光が廊下を照らし、その奥で何かが静かに息づいている。
梵寸は一瞬目を閉じ、音なき風とともに姿を消す。
そして――朗源の書斎の扉の前に、音もなく現れた。




