第五十一話 鴨川天魁派・鴉丸の黒羽
河川敷を渡る風に、鉄のような血の匂いが混じっていた。
枯れ草が擦れ、赤く濁った流れが月の光を鈍く返す。経心の体はすでに力を失い、袈裟は暗い赤に染まっていた。
華は震える指で梵寸の裾を掴み、小吉は顔を引きつらせながら経心を支える。吐息は浅く、誰の喉からも言葉が出なかった。
その前に立ちはだかる三人の男――鴉丸、瓢兵衛、数珠之助。
本来なら鴨川天魁派の門番にして賭場の番人であるはずが、今の顔つきはただの荒くれに過ぎない。
女と子供を脅すことにためらいもなく、濁った目には金と暴力しか映っていなかった。
梵寸は、静かに前へ出た。
短刀を抜くでもなく、ただその掌を垂らし、男たちを見据える。
十二歳の童とは思えぬ眼光だった。
「わしの大切な者に手を出すとは――随分な無作法よ。帰り道を、教えてやろうか」
その声音は低く、どこか遠くの時代から響くようだった。
掌をひらりと動かし、汚れた風を払うようにする。
「くくっ、小僧が何をほざく。傾奇者に逆らうとは、死に急ぐか……糞餓鬼が!」
瓢兵衛と数珠之助は笑いながら抜刀し、ほとんど同時に斬りかかった。
草が裂け、夜風が弾ける。
二対一の数の優位を信じ、相手がただの小童であると侮った。
しかし――その瞬間、風が止まったように感じた。
「やれやれ。子供に刃を向けるとは、まこと哀れよ。歯を食い縛れ」
梵寸は避けも受けもせず、一歩踏み出した。
掌が横薙ぎに振るわれ、「パァン」と乾いた音が夜を裂く。
瓢兵衛の頬が大きく撓み、彼の体はふらついた。続けざまにもう一度――反対の掌が同じ軌道を描き、頬を往復する。
次の瞬間、瓢兵衛は膝から崩れた。
白目を剥き、股間から温い液が草を濡らす。
続けて数珠之助にも同じ掌打が落ちた。音はほとんど連打のようで、気づけば彼もまた仰向けに倒れ、息もない。
風が、何かを運び去るように吹き抜ける。
小吉は思わず目をそむけ、華は震える手で梵寸の衣を強く握った。
沈黙。
その場にいた乞食どもは誰も声を出せず、鴨川の流れだけがごうごうと響いた。
ただ一人、鴉丸の瞳だけが赤く燃えていた。
仲間の敗北に怒りを露わにし、刀を高く掲げる。鬼面の下から唸り声が洩れた。
「小僧め……よくもやりおったな! 見せてやる――これが鴉流第一ノ型、黒羽一閃!」
豪快な踏み込み。
風を切る音とともに、刃が光の線を描く。確かに剣には癖があり、荒々しさの中に型の片鱗があった。
だが――
「ふむ。真境の下位か。話にもならぬ」
梵寸は片手を突き出した。
刃を受けるでもなく、ただ掌先で鴉丸の顔面を軽く払う。
それは合図のような一撃だった。
続けて逆手に返し、往復の掌が音を立てて鴉丸の頬を薙ぐ。
鬼面が宙に舞い、彼の巨体は風に煽られたように後方へと回転した。
地面に叩きつけられ、胸を強打したまま動かない。唇の端から血が滲み、やがて白目を剥いて沈黙した。
静寂が、場を支配した。
誰かが息を飲み、他の者たちはただそれを見守るしかなかった。
やがて――拍手が起こる。
最初に声を上げたのは、小吉だった。
「やったな、梵寸。あいつら、いつも威張ってやがったからな」
乞食たちの間に歓声が広がり、荒れた河川敷に一瞬だけ笑いが戻る。
梵寸は三人の倒れた体を見下ろし、冷えた声で言い放った。
「松本久吉を監視せねばならぬ折に、こんな雑魚どもに手を煩わせるとは……。愚かだな。京では正道と悪道が、それぞれの役目を持つ。だが道を踏み外せば、その報いを受けるだけだ」
その言葉を残し、梵寸は踵を返した。
夜風が袂を揺らす。心臓の鼓動が早鐘のように鳴り、胸の奥が締めつけられていく。
小吉に後を託し、一条観音堂へと走った。
草を蹴る音が、闇の中でやけに大きく響く。
◇◇◇
一条観音堂――そこは既に、地獄の入口だった。
僧たちの怒号と悲鳴が入り乱れ、火花のような言葉が飛び交う。
「お前に僧侶の資格はない!」
松本久吉の傍らで、僧・勘助が華王房の袈裟を剥ぎ取る。
延暦寺と法華宗の僧が入り乱れ、袖を掴み、押し合い、罵声を浴びせる。
堂内には香の煙と血の匂いが混じり、仏像の影が揺れていた。
梵寸はその場に立ち尽くした。
間に合わなかった――その事実が胸を刺す。
松本問答はすでに終わり、残ったのは決裂の余韻だけだった。
空気が重く、喉の奥が痛む。
「天文法華の乱……やはり、避けられぬか」
声は掠れ、震えていた。
二度目の人生でも、この結末だけは変わらぬ。
七十九年を生きて死んだはずの身で、再び十二歳の肉体に戻りながら、梵寸は己の無力を噛みしめた。
歴史の流れは、手のひらでは掬えぬ。
人の怒りも、信仰も、憎しみも、時の奔流の前では砂粒のようだ。
拳を握る。爪が食い込み、白くなる。
それでも――彼は立ち止まらない。
己が背負うものが、誰よりも重いことを知っているからだ。
夜の風が堂の戸を叩いた。
遠くで、鴨川の流れがかすかに鳴る。
それは、抗えぬ運命の調べのように、静かに響きつづけていた。




