第四十七話 剣封破軍ーー心献虚空
伏見の外れ――雪を孕んだ風が竹林を渡り、黒々とした屋敷の瓦を震わせていた。
その名を「冥焔館」。
昼なお薄闇に包まれ、灯籠の火は嘲るように揺れ、庭の池面は凍えた月光を震わせる。
灰がひらりと舞い、瓦に降り積もるたび、世界は音を失って沈んでいくようだった。
京の南に巣食う恐怖――外道破軍衆。
夜陰に紛れ、民を焼き、奪い、嬲り、憎悪を撒く。
その名を耳にするだけで、都人は膝を震わせた。
幾度も討伐が試みられたが、奴らは影のように消え、また現れる。
だが今宵、その静寂を嘲るように、冥焔館の奥で一人の男が座していた。
外道破軍衆の頭領――羅刹牙。
乱世の梟雄と呼ばれ、修羅の化身と畏れられた巨魁である。
広間の奥、闇を湛えた瞳は、ロウソクの光を拒むように妖しく輝く。
見た者は魂を凍らせ、膝をつくしかなかった。
その傍らに控えるは、軍師にして副頭領――芦屋道幻。
安倍晴明と並び立った宿敵・芦屋道満の血を引く男。
倒立五芒星を胸に掲げ、理と呪をもって闇を支配する。
白磁の面差しには温度がなく、微笑すら冷気を帯びていた。
広間の下座には、破軍衆の猛将――山本勘助。
戦場で百人を斬り伏せ、敗北してもなお野心を失わぬ剛の者。
頬に走る古傷が、忠義と屈辱の歳月を物語っていた。
◇◇◇
羅刹牙の声が地の底から響く雷のように広間を揺らした。
「法華宗に潜入したか……松本久吉の件、どうなっておる?」
燭台の炎が震え、障子の紙が微かに鳴る。
その低声に込められた威圧だけで、境地の低い者ならば崩れ落ちただろう。
勘助は頭を垂れ、かすれ声で言った。
「準備は整いましてございます。されど、次こそは――この勘助、命を賭して事を成してみせまする」
その言葉を遮るように、道幻が冷たく笑う。
「次こそは、だと? 犬に策が操れるか」
扇子の先で空をなぞりながら、冷笑を投げる。
勘助の拳がわずかに震え、血管が浮き上がった。
怒りが喉までこみ上げたが、彼はそれを押し殺す。
剛力だけでは破軍衆を導けぬと、身に染みて知っていた。
「道幻殿。言葉で戦が終わるなら、誰も血を流さぬ。
だがこの京は、剣で裂くほかに道はない。――たとえこの身が砕けようともな」
その声に張りつめた空気が揺らぎ、ロウソクの火がぱちりと弾ける。
羅刹牙が、微かに口角をにじり上げた。
勘助は静かに刀を抜いた。
その動きには一片の迷いもない。
刃が月光を吸い、冷たく光る。
勘助は片膝をつき、右手で剣を握りしめた。
刃先を下に向け、胸に押し当てる。
左手は肘を曲げ、手の甲を腰に添えた。
その姿――破軍衆に伝わる忠誠の儀「剣封の誓い」。
羅刹牙の前に身を捧げるように、深く頭を垂れた。
やがて、勘助の喉から低く、震えるような声が漏れる。
「――剣封破軍、心献虚空!」
声が広間に響いた瞬間、空気が裂けるような緊張が走った。
それは叫びではない。
己の命を、魂ごと虚空へと投げ出す祈りの言葉だった。
胸に押し当てた刃の冷たさが、血潮の熱を奪っていく。
そのまま左腕を浅く裂き、滴る血を刀身に這わせた。
「この血潮をもって誓う!」
声は震えていなかった。
「松本久吉を動かし、延暦寺を揺るがす! 都から延暦寺の勢力を裂いてみせる!
この命、燃え尽きようとも、破軍衆の名を京に轟かせてみせる!」
紅の滴が畳に落ち、血の香が広間を満たす。
それは忠誠と焦燥が混ざり合った匂いだった。
道幻は扇子をゆるりと動かし、薄く笑う。
「血で誓うとは、いかにも武人らしい。だが――血は誓いを重くする。
重さに足を取られぬよう、せいぜい気をつけることだ」
挑発にも似た声音。
勘助の目が怒りに光り、刃を握る手が軋む。畳の縁が裂けた。
その緊張を――羅刹牙の笑いが断ち切った。
「ふはははははっ!」
雷鳴のような哄笑。
音ではなく、圧そのものが広間を満たす。
強大な神気を帯びた咆哮に、柱が軋み、床石が震え、天井の灯籠が揺れた。
「見事よ、勘助! その血潮、その猛り、よき獣よ!
そして道幻――貴様の氷の眼差しもまた、この羅刹牙を昂らせる!」
覇王の声に、道幻と勘助の身体がわずかに震える。
だが膝はつかぬ。この男の前で膝をつけば、二度と立ち上がれぬと知っている。
しかし、周囲の配下たちはそうはいかなかった。
羅刹牙の笑気に混じる神気が、彼らの体内を乱打する。
一人、また一人と顔を蒼ざめさせ、口から血を吐き、胸や腹を押さえて床に転がった。
「ら、羅刹牙様……! どうか、お鎮まりを……!」
震える声が広間に響き、畳に赤い滴が散る。
羅刹牙はなおも笑い続けた。
その笑いは獣の咆哮に似ていたが、力の誇示ではない。
己の中の鬼を、愉悦とともに解き放つ声だった。
やがて笑いが収まり、広間に沈黙が落ちる。
羅刹牙の瞳が、道幻と勘助を順に射抜いた。
「牙も、知恵も、猛りも、冷笑も――すべては我が器に収まる。
外道破軍衆とは、この羅刹牙のためにある!」
その言葉は広間の隅々まで響き渡り、誰一人として息を飲むことすら忘れた。
覇王の宣言は、呪のように彼らの胸を縛る。
勘助は唇を噛み、拳を握りしめた。
道幻は薄く笑みを浮かべ、眼差しの奥に計算を宿す。
二人は知っていた。
この男の器に収まること――それは、己の誇りを喰われることに他ならぬと。
外では雪が吹き荒れていた。
冥焔館の灯籠が風に揺れ、炎が赤黒く滲む。
その揺らめきは、まるで羅刹牙の覇気を映すように――夜を焦がし続けていた。




