第四十五話 乞食の裏組織・乞食衆
夜の冷気が薄く残る京の朝――。
まだ町がまどろみの中に沈む刻限、梵寸たちの鍛錬はすでに始まっていた。
風が吹く。土埃の匂いが鼻を刺した。
湿った路地を踏みしめるたび、裸足の裏から冷えが骨へと染み込んでいく。
訓練はただ走る。それだけの、あまりにも単純な鍛錬。
だが忍びの道は、この「単純」を血肉に刻むことから始まる。
「死ぬ……! 俺、もう駄目かも……!」
乞食の少年・小吉の声が闇を震わせる。両の掌に握るのは丸石――指先の皮が擦り切れ、血と汗で滑りそうになる。それでも、足を止めはしなかった。
荒い息を吐きながら、胃の底に溜まったものを吐き出しては、また駆ける。弱い己を切り捨てるために。
悟りの境地――神気を掴めば、ただの乞食の子から超人的な忍びに化ける。
だがその壁は、まだ遠い。
一方、華は一言も声を漏らさぬまま、ただ前を見据えて走っていた。
頬を汗が伝い、髪が頬に貼りつく。顔は蒼白、それでも瞳の奥には一欠片の揺らぎもない。
彼女が走る理由は一つ。
肌に刻まれた呪印を、どうしても消したい――そのためだった。
乞食に誇れるものは何もない。
だからこそ、たった一つの自尊心を取り戻すために、声も上げず、弱音も吐かず、唇を噛みしめて走り続ける。
その先を行く梵寸の背は、小さな影ながらも圧倒的だった。
胴に百斤を超える石を巻きつけ、さらに身体の三倍はあろう巨石を肩に担ぎ――それでいて、ひと踏みごとに地を打つ足取りは揺るぎない。
見た目は十二歳。だがその胸に宿るのは、七十九年を生き抜き、甲賀を背負った惣領の矜持だった。
息が荒れれば、過去の戦場が蘇る。血と炎の記憶が、弱き今を嘲るように。
(こんなもので、止まるわけにはいかぬ)
走り終えた三人は、汗と埃にまみれながらも、荒い息を整え、静かに町へと足を向けた。
向かう先は――法華宗の炊き出し。
彼らにとって、生きるための糧そのものだった。
◇◇◇
朝霧の路地。
人影はまばらで、軒先の桶からしたたる水音だけが、静寂の中で響いていた。
途中、路傍にうずくまる影が一つ。
土にまみれた袈裟を羽織り、震える指先を差し伸べている。
「お武家様、商家の旦那衆……どうか一文、情けを恵んでくだされ……」
声はかすれ、乞いの言葉に力はなかった。哀れというより、すでに諦めに沈んでいる。
「……おや、梵寸じゃねえか」
顔を上げた乞食の男――乞食衆の幹部、屑太郎。
痩せこけた頬、にやりと吊り上がる口。
その眼光には、ただの物乞いではない街の裏を知る者の鋭さが宿っていた。
「おい梵寸。最近、俺らに情報を寄こさねえじゃねえか。遊郭の妙婆の動きも、誰も聞いちゃいねえ。お前、乞食だろう。乞食衆の一員じゃなかったのか?」
言葉は軽く、だがその奥にあるのは圧力だった。
路地裏に漂う腐臭が、二人のあいだに溜まる沈黙をより重くする。
梵寸は足を止め、ゆっくりと屑太郎を見据えた。
瞳に宿るのは、十二歳の幼さではなく、老練な忍びの冷たい光。
「屑太郎よ。乞食衆に情報を流したところで銭にはならぬ。華の病を治すには、銭が要るのだ」
「だがなあ……乞食は乞食同士で結託すべきじゃねえのか?」
屑太郎は肩をすくめた。
その仕草には諦めにも似た哀れがあった。
「……まあ、そうかもな。だが仕方ねえ。俺も銭はねえし、手を貸す力もねえ」
小さく笑い、だが次の瞬間、その眼が細くなる。
「だがな梵寸、この京で生き残れ。応仁の乱のあとだ。腐った連中が巣食う巷じゃ、強くなきゃ誰一人生きられねえ」
その言葉を残し、屑太郎は人混みの向こうへと消えた。
風が残り香と埃だけを残して吹き抜ける。
梵寸はしばし立ち尽くし、その背に視線を送った。
この街は、乞食に情けをかけるほど柔くはない。
◇◇◇
太陽がゆっくりと瓦屋根を照らし始める頃、三人は炊き出しの場――妙蓮寺へとたどり着いた。
門前には、すでに乞食たちが群れていた。
釜から白い湯気が立ちのぼり、僧侶たちが粥をよそう音が響く。
華は人々の視線を感じた。
昨日、彼女に因縁をつけた大人の乞食を、梵寸が平手ひとつで血反吐を吐かせた――その噂は一晩で広まっていた。
誰も彼女に近づこうとしない。
遠巻きに視線だけが絡みついてくる。
「師匠!」
駆け寄ってきたのは、梵寸の弟子・経心。
幼い顔に浮かぶ尊敬の色が、梵寸の眼差しを一瞬やわらげた。
そのとき、華がふと人混みの奥を見やる。
立派な装束、整えられた髪、背筋の伸びた立ち姿――ひときわ目を引く男がいた。
松本問答で名を馳せた法華宗の有力檀家、松本久吉である。
彼は炊き出しに資金を出し、僧たちと共に粥を配っていた。
人々は彼に頭を下げる。乞食すらも、その前では目を伏せる。
梵寸の胸の奥に、黒い炎が灯った。
この男――後に京を戦火に沈める張本人の一人。
延暦寺を論破し、僧衣を剥ぎ取ったその傲慢が、やがて血と炎の十五年を招く。
そして……梵寸の恩人・お梅を焼き殺すことになる。
まだ幼い肩に、歳月の記憶がのしかかる。
拳が、知らず握られていた。
「子供の乞食か。しっかり食べ、大人になるのだぞ」
松本久吉は柔らかな笑みを浮かべ、粥を差し出した。
その笑顔が――梵寸には毒のように見えた。
彼は粥を受け取りながらも、久吉を真っ直ぐに見据えた。
幼い瞳に、静かだが鋭い怒りの光。
一瞬、久吉が眉をひそめた。
何かを感じ取ったのか、あるいは虫でも見たのか――その表情は曖昧だった。
粥の湯気が二人のあいだに立ちこめる。
それはまるで、因縁の幕開けを覆い隠す白い靄のようだった。
華がその横顔を見たとき、彼女には理解できぬ怒りがそこにあった。
小吉はただ、恐る恐るその場を見守ることしかできなかった。
だが梵寸は知っている。
この邂逅が、京の命運を揺るがす大きな火種になることを。
運命は、すでに静かに歩き出していた。




