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乞食からはじめる、死に戻り甲賀忍び伝  作者: 怒破筋
第二章 天文法華の乱ーー燃えゆく京
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第四十四話 死に戻りの刃 松本問答を砕く策

「おお、経心きょうしん。いつも粥をすまぬな」

梵寸は甲賀の惣領らしく、堂々と礼を述べる。


「ん? なんか、梵寸の話し方、いつもと違う?……ま、いいや! 今日も薙刀なぎなた稽古けいこ、やるか?」

 経心は、武力を持たない梵寸に薙刀を教えてくれる友であった。

 その手はまだ細く、少年らしい。だが、目には僧兵としての強い光が宿っている。


 だが、梵寸は知っている。この少年が、天文法華の乱で勇敢に戦い、延暦寺の僧兵の刃に倒れることを。


◇◇◇◇◇◇◇


 その時、梵寸は妙婆の命で密偵として妙蓮寺を監視していた。

 延暦寺と同盟を結んだ六角氏、その配下の妙婆の密偵として。敵対する立場にありながら、経心は最期まで梵寸を気遣った。


「梵寸、ここは危ねえ。早く逃げ……ろ」

 延暦寺の僧兵の袈裟斬りをくらい、血を吐きながらそう言い、息絶えた経心の姿を、梵寸は七十九歳に死ぬ時まで忘れられなかった。お梅と経心。この大事なニ人を梵寸は天文法華の乱で失った。


 今、目の前で笑うこの少年が、その経心だ。まだ死ぬ前の、純粋で真っ直ぐな友だ。

『今度は必ず救い、恩を返す』

梵寸は心の中で固く誓った。


「うむ、今日も稽古をつけてもらおうか」

「うん! じゃあ、食べ終わったら境内に来いよ!」

 経心は屈託なく笑い、梵寸は熱い粥を口に運んだ。その熱さは、単なる粥の温度ではない。

 七十九歳で死んだ男の後悔と、十二歳に戻った今だからこそ果たせる決意。


――この少年とお梅を、そしてこの都を、必ず救ってみせると、梵寸は誓った。それこそやり直しをさせてもらった不動明王への義理というもの。


 妙蓮寺の境内、薙刀の手合わせ。

経心との稽古は、いつもより短いが、濃密だった。梵寸は、十二歳の体で薙刀を振るう。一突き、一払い。動きは幼い体格をはみ出し、七十九年の経験が刃に宿る。


 刃がぶつかるたび、火花が散り、経心の目が大きく見開かれた。

「……梵寸、化け物か?前とはまるで別人だ。というより拙僧より強くなって……」


 経心の声は驚嘆と興奮が混じり、わずかに震えた。少年らしい丸みを帯びた言葉に、梵寸は苦笑を浮かべる。七十九年を生きた梵寸の口元は、どうしても古びた形を隠せぬ。


「化け物ではない。学び、鍛えただけだ」

 梵寸は静かに返す。甲賀衆惣領として血と汗で磨いた技が、十二歳の体にぎこちなく収まりながらも、鋭く滑り込む。経心の素直な驚きに、昔の勘が胸をくすぐる。あの頃、梵寸は敵の隙を一瞬で見抜き、戦場を渡り歩いた。


 経心はふと、梵寸の袖を見て、真剣な顔になる。

「拙僧に教えてくれぬか? 梵寸のように動けるようになりたい!」


 その言葉は純粋で、誠実だった。梵寸は一瞬、視線を宙に泳がせる。七十九年の記憶が、胸にさざ波を立てる。あの天文法華の乱で、経心が延暦寺の僧兵の刃に倒れる姿。血を吐きながら「梵寸、逃げろ」と叫んだ少年の顔が、今も焼き付いている。だが今、目の前の経心はまだ無垢で、未来を知らぬ。


「よかろう。だが、鍛錬とは体だけではない。目と耳、心を研ぐものだ。今後、時間を取ってみっちりやるぞ」

梵寸はそう告げ、経心の笑顔を誘う。


 少年は「はい!」と明るく答え、ぱっと顔を輝かせた。その無垢な反応に、梵寸の胸が熱くなる。死に戻った今、この友情を、必ず守る。


 二人が身支度を整えていると、境内の門が静かに開いた。足音は控えめだが、梵寸の感覚はそれを捉える。妙蓮寺に、こんな時間に静かに来る者――そう多くはない。


「誰か来たようだな」

 梵寸が言うと、経心もそちらを見た。境内に入るのは、年上の男。歩き方に自信が漂い、着物の袖には都会者の気取らしさがある。険しい顔立ち、落ち着いた仕草。梵寸の心に、古い記憶の影がよぎる。


――松本。松本久吉。


 松本問答の主役として歴史に刻まれる男だ。七十九年の記憶が、そいつの姿をはっきり呼び戻す。梵寸は、その男の姿を一目で見抜いた。六十七年前に一度だけ見た僧侶であるにも関わらず。


「説法を聞いてみるか?」

 経心がそっと尋ねる。まだ幼い声だ。梵寸は首を振る。

「待て。経心は小吉と華と共に日課を続けていなさい」

 梵寸の口調は、甲賀の惣領そのもの。命令だ。経心は素直に頷いて、三人で訓練を再開した。


 小吉と華は、妙蓮寺の訓練場でいつもの訓練をしている。華は刺青――罪人の印――を隠しながら、抜群の反射神経で動き、小吉は無骨だが力強い。梵寸は二人に短く指示を出す。


「無駄な動きを減らせ。華、足元を固めろ。小吉、力に頼るな」

 二人は頷き、汗を流しながら続ける。訓練を見届けながら、松本の行く先が分かると、梵寸は気配を消し、妙蓮寺の奥へ向かった。


◇◇◇◇◇◇◇


 忍びの体は自然と動く。屋根の影、瓦のずれ、畳の匂いの違い――七十九年の経験が、細かな異変を捉える。梵寸は屋根裏への小さな梯子を見つけ、音を立てず身を滑らせた。甲賀の術は、名を呼ぶまでもなく体に染みついている。


 屋根裏は狭く、埃が積もる。動けば音がするが、今は下で松本と住職の声が響く。梵寸は背を丸め、口元に笑みを浮かべた。隅に古い肥溜こえだめの蓋がある。臭気が強い。あの頃の梵寸なら、躊躇ちゅうちょなくそこに飛び込んで身を隠した。だが、十二歳の体は嗅覚が鋭すぎ、顔をしかめる。


『昔なら、肥溜めなど朝飯前だったがな……流石に今やるのは辛いの』

 梵寸は心で呟き、鼻をつまむ仕草で自嘲する。過去の自分を思い出す笑いは、どこか切ない。


 屋根裏の密談。

 下では、松本と住職が言葉を交わす。梵寸は息を殺し、耳を澄ませた。

「延暦寺のやり口は卑劣だ。幕府にも手を回し、我らを京の外へ追い出そうとしている」


 住職の声には怒りが滲む。松本は冷静に答える。

「されど、やられるままでは寺門の面目が立たぬ。反撃の準備を進めねば。松本殿、この屈辱を晴らす好機を探りましょうぞ」


 松本久吉。その言葉が、梵寸の胸に重く響く。埃が微かに舞い、梵寸は梁に沿って体を沈めた。聞こえるのは単なる怒りではない。計画が動き出す音だ。


「法華宗の寺が狙われれば、京の町屋にも火が及ぶ。都が燃えれば、民も多く死ぬ。延暦寺はそれを顧みぬ」

 住職の言葉に、梵寸は舌打ちしそうになる。七十九年の記憶が、焼け落ちた京の光景を呼び戻す。お梅の最期、経心の倒れる姿。胸が締め付けられる。


 松本が続ける。

「我らにも手はある。幕府に通じる者、武力の手配。だが、暴発は避けねばならぬ。延暦寺の暴挙を誘う口火を、こちらで用意する」


 梵寸の脳裏に、策が閃く。

 松本問答を潰すには、松本の口を封じればいい。だが、殺しは最後の手段だ。梵寸はこれまで血に塗れた道を歩んできたが、今は違う。殺生をせずに救う道があるなら、それを選ぶ。


『殺さず、どう封じる?』

 梵寸は暗がりで思案を巡らす。甲賀の伝承には、相手を無力化する術や薬の噂がある。戦乱の世では、「神薬」と呼ばれるものもあった。


 他にも直接殺さず、信用を落とす、証拠を偽る、公の場で辱める――そんな手もある。だが、今はもっと狡猾こうかつな策が必要。松本の動きを鈍らせ、法華宗の暴発を防ぐのだ。


 梵寸は息を殺し、口元に笑みを浮かべる。

『やはり一番穏和な策が良い』

 甲賀の小道具――相手を眠らせる薬、痺れ薬の話が頭をよぎる。


『まずは、松本の言葉を封じる。命を奪わずにな』

 梵寸は自分に言い聞かせる。経心、華、小吉の顔が浮かぶ。彼らを巻き込むわけにはいかぬ。決断は早かった。


 下では、松本が住職に深く頭を下げる。梵寸はその姿を見下ろし、心の中で計略を練る。七十九年の経験、死に戻った記憶、十二歳の体――これらを活かせば、松本問答を揺るがせることはできる。


 だが、梵寸にとって最も大切なのは、経心とお梅を守ることだ。

『焦ってはならぬ。今は静かに策を練ろうぞ』

 考えがまとまらない梵寸は自分に言い聞かせ、屋根裏の影に身を沈める。


 会話が終わり、松本が去る。梵寸の計画はまだ種にすぎぬ。だが、種は撒けさえすれば。いずれ芽を出すと信じる。なぜなら、梵寸は甲賀惣領・赤尾梵寸だからだ。梵寸は屋根裏の影にすっと滑り込んだ。


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