第四十三話 お梅を救うため、梵寸は再び炎の夜へ
天文五年(1536年)。
黒煙が空を覆い、京の都は地獄と化していた。法華宗の寺は燃え、町屋は崩れ、炎が夜空を赤く塗り替えている。泣き叫ぶ声が鴨川沿いに木霊し、誰もが何かを失いながら逃げ惑っていた。
のちに「天文法華の乱」と呼ばれる凄惨な動乱。その渦の中に、わしはいた。
いや――「いた」ではない。「戻ってきた」のだ。
慶長八年(1603年)、七十九歳で息を引き取ったはずの梵寸は、気がつけば天文五年の鴨川の河川敷に立っていた。十二歳の身体、七十九年分の記憶。不動明王の加護で死に戻りをしたのである。
その胸に焼き付いた夜がある。
あの夜、わしの母同然の女――お梅が、炎に呑まれた夜だ。
◇◇◇◇◇◇◇
遊郭の屋根が燃え、梁が軋んでいた。
熱で空気が揺らぎ、皮膚に刺すような痛みが走る。
煙が目に染み、息をするたびに喉が焼けた。
あたりには酒と脂と人の焦げる臭いが混じり合い、地獄そのものだった。
「お梅さん! お梅さん!!」
梵寸は焼けた床板を踏みしめながら叫んでいた。
幼い声だが、その必死さは惣領としての叫びだった。
崩れ落ちた柱の影、炎の中に、彼女は座っていた。
肌は煤にまみれ、着物の裾は焦げている。それでも、笑っていた。
それは――何度もわしを抱きしめてくれた時と同じ、あたたかな笑顔だった。
「梵寸……なんで戻ってきたの……」
お梅の声はかすれていた。
それでも、あの優しい言葉の響きは、変わらなかった。
「逃げなさい……早く……」
「……お梅さんを置いてはいけない!」
梵寸は彼女の腕を取った。火傷で皮膚がただれている。だが、梵寸は力の限り引きずった。
お梅は静かに首を振った。
「いいの。もう、いいのよ……」
炎が梁を呑み込み、音を立てて落ちた。
爆ぜた炭が飛び散り、背中に刺さるような痛みが走る。
その中で、お梅はわしの頭を撫でた。炎にまみれたその手は、いつも粥をよそってくれたあの手と、何も変わっていなかった。
「梵寸……あなた、よく頑張ってる……」
「まだ……終わってはいない!」
「いいや、あんたはよく生きてるよ。……華のことも……最後まで……よく守ったじゃない……」
その声は震えていたが、愛情に満ちていた。
お梅にとって、血のつながりなど関係なかった。乞食の梵寸と華を、実の子のように抱きしめ、飢えた夜には粥を分け、寒い夜には自分の布団を裂いてくれた。
梵寸が初めて人を信じたのは――この女の手のぬくもりだった。
「……梵寸。あなた、生きなさい」
涙が熱で蒸発し、頬が焼けるようだった。
「いやだ! お梅さんを置いてはいけないよ!」
「いいのよ……あたしはもういい……。けどな……あなたは、生きなさい」
お梅は弱った手でわしの頬を撫で、まっすぐに見つめた。
炎の赤が瞳に映り、その瞳は――揺るぎない祈りの色をしていた。
「生きて……梵寸……。あなたは……あたしの……大事な……子よ」
その言葉とともに、腕が梵寸の中で力を失った。頭が傾ぎ、瞼が閉じる。
炎の轟音の中、その一瞬だけ、世界が音を失った。
お梅の身体を抱きしめたまま、梵寸は声を上げることもできなかった。
ただ、静かに涙を流し――己の無力さを噛みしめた。
七十九年、生きた。あの時の声は、一度も忘れたことがない。だからこそ、今、梵寸は戻ってきた。
お梅を救うために――この乱を、止めるために。
◇◇◇◇◇◇
朝の鴨川。
法華宗の炊き出しの列に、乞食どもが並んでいる。梵寸と妹・華、そして隣に住む小吉も、冷えた空気の中、列に身を置いていた。
「今日もすげえ並びだな……」
小吉が鼻をすする。
「辛抱せい。生きるための飯だ」
梵寸の声は静かで低い。十二歳の声に、惣領の威厳が滲む。
列の途中から、笑い声が漏れた。
華の腕――罪印の刺青に、乞食の男たちが目を止めたのだ。
「おい見ろよ、刺青だぜ」
「罪人の小娘じゃねぇか」
「粥の前に詫び入れろや、こら」
華はいつもなら俯く。
だが、この日は違った。震える肩が上がり、唇がきつく結ばれる。
「やめて……!」
かすれた声。けれど、その眼は怒りでまっすぐだった。
乞食の男の顔が歪む。
「なんだと? 小娘が逆らうってのか」
腕が振り上げられた。平手打ちが華に飛ぼうとする――その前に、一人の少年が飛び出した。
「やめろッ!!!」
小吉だった。
幼い体で、腕を受け止め、華を背に庇った。
「てめぇ……小僧が!」
「こいつ、ぶっ潰せ!」
乞食の大人八人が、小吉を囲む。
「小僧!なんで止めたんだ……!」
「うるせぇ!」
拳が飛ぶ。だが小吉は怯まない。
拳を腹に叩き込み、顎を打ち上げ、膝で蹴り飛ばす。
「ぐっ……!」
「な、なんだコイツ……強え!」
五人が次々に倒れ、砂埃が舞う。
だが残り三人が背後から小吉を殴りつけた。腹に拳がめり込み、小吉が大きく吹き飛ぶ。
「くそ……! こんな雑魚にまで……俺は……」
地に伏した小吉が、血を滲ませながら唇を噛んだ。
梵寸は静かに歩み出す。
「そこまでだ」
三人が振り返ると同時に、梵寸の手が閃いた。
右――左――右。
往復の平手打ちが空気を裂き、三人の体が宙に浮き、そのまま河原に叩きつけられた。
列全体が静まり返る。
梵寸は倒れた小吉の傍に膝をついた。小吉の目は、まだ闘志に燃えていた。
「……すまねぇ、師匠……」
「いや。よう戦った、小吉」
梵寸は優しく微笑んだ。
「己より大きい者八人に立ち向かい、五人を倒した。それだけで誇れ」
「……でも……俺、負けた……」
「負けではない。ここで立った。それがすべてだ」
梵寸は小吉の頭に手を置く。
「小吉よ、強くなれ。己の大切な者たちを守れる力を、身につけよ」
小吉は涙を流し、唇を震わせて強く頷いた。
華がそっと彼の肩に手を置き、微笑んだ。
列が再び動き始める。
炊き出しの前で、法華宗の小僧・経心が笑顔を向けた。
「梵寸、遅かったじゃないか!」
「ちと、虫けらどもを叩いておっただけよ」
梵寸はさらりと答え、器を受け取った。湯気が立ちのぼるその先に、炎の夜の記憶がよぎる。
――お梅の声。
「生きておくれ、梵寸……」
梵寸は深く息を吸い込み、心の奥で誓った。
この乱を止める。
お梅を、救う。
この子らの未来を、必ず守る。




