第四十二話 華、涙と決意の朝
翌朝。夜明け前の冷たい空気が、藁ぶき屋根の下にひっそりと溜まっていた。外では、まだ虫の音が残り、朝霧が畑を包み込んでいる。
その静けさを破ったのは、甲高い悲鳴だった。
「きゃあああああああああっ!!」
訓練場で石刀を振るっていた梵寸は、その声を聞くなり、眉間に皺を刻んだ。
「……華か」
稽古を中断し、音のした屋内へ駆け込む。
そこには、顔を真っ青にし、自分の体を見回している妹・華の姿があった。
「華、どうした。何があった」
声をかけると、華は涙目で兄の方へ身を乗り出してくる。
「にいに! にいにっ! 華の体が……体がぁ!」
彼女は震える手で袖をまくり、胸元まではだけていく。そこに現れたのは――黒々とした紋様。
それは腕から胸、さらに足先にまで這いまわるように刻まれ、まるで入れ墨のようだった。
そこへ、昨夜薬を飲まされていた小吉が慌てて駆け込んできた。
「華、大声出して……どうし──あっ!」
小吉の目が紋様を捉えた瞬間、頬がみるみる赤く染まる。華の白い肌が大胆に露わになっていたからだ。
「い、入れ墨が華に……? それも、全身……!」
「な、なんじゃ。そんなことか」
梵寸は妹の命に別状がないと判断し、ふっと息をついた。だが、華の顔は見る見るうちに絶望に染まっていく。
「そんなことって何よっ! これじゃ華……お嫁に行けなくなるじゃない!!」
震える声が屋内に響く。涙が目尻から溢れ、藁床に一粒、また一粒と落ちた。
「だ、だったら……俺が嫁に……いってっ!?」
勢い余って口走った小吉は、次の瞬間、梵寸の放つ鋭い気迫に全身を凍りつかせた。
「未熟者。女に心を乱すとは、修行が足りぬ証よ。覚悟しておけ」
紅の瞳で睨まれた小吉は、慌てて姿勢を正し、
「ひ、ひぃっ! す、すみません師匠ぉ……!」
情けない声を漏らした。
梵寸は軽く鼻を鳴らすと、昨夜の施術を思い返す。
「ふむ。昨夜、針を打ったろう。そのおかげで華の病は消えた。命があっただけでも、ありがたく思え」
「……あっ! そういえば、にいに顔にも針を──あ、あああっ!!」
華の叫びとともに、藁ぶき屋根の扉が勢いよく開かれた。彼女は裸足のまま、川の方へと駆け出していく。
「おお……華が全力で走るのは初めて見たな。完全に治ったようじゃな、ぬはははは」
「師匠、そういう問題じゃねぇって……」
小吉の突っ込みを遮るように、川辺から再び悲鳴が響き渡る。
「ぎゃあああああああああああっ!!」
川面に映った己の顔にまで、呪印が刻まれていることを知ったのだ。
しばらくして戻ってきた華は、両膝と両手を地に突き、肩を落とした。
「……顔にまで……入れ墨が……。もう華の人生、終わったぁぁ……」
藁布団に突っ伏し、しゃくり上げる妹の背中を見つめながら、小吉は何も言えなかった。
梵寸は静かに歩み寄り、落ち着いた声で告げる。
「死ぬよりは良かろう」
「にいにのばかぁぁぁっ!」
華の怒りに満ちた睨みも、梵寸の顔色を変えさせることはなかった。むしろ、彼の声はさらに引き締まる。
「……どうしてもその入れ墨が気になるのなら、消す方法はある」
「えっ……! 本当!? にいに、どうすればいいの!」
涙に濡れた顔を上げ、華は縋るような目で兄を見上げた。
「神気を自在に操れるようになれば、呪印もまた、己の意のままにできる。覇境に至れば、自分の体から消すこともできる」
「覇境……?」
華の瞳に光が宿る。小吉もごくりと喉を鳴らした。
梵寸は指を一本立て、淡々と語り始める。
「達人の道は、七段階に分かれておる。まず真境。ここでようやく神気を操ることができる。さらに段階を重ね、三段階の覇境に到れば……呪印は己のものとなる」
「……じゃあ、覇境まで行けば、華の体から入れ墨を消せるってことだね!」
「ただし、道は険しいぞ。命を削る覚悟が要る」
兄の忠告も、今の華には耳に入らない。彼女の瞳は強い決意に満ちていた。
「華、絶対に……絶対にそこまで行ってみせる!」
小吉が恐る恐る口を開く。
「し、師匠……今の日ノ本で、いちばん強い武人って、どの段階にいるんです?」
梵寸は少し考えたあと、静かに答えた。
「知られている限りでは……剣聖・塚原卜伝が玄境の下位に至っておる。七段階のうち、五つ目の境地じゃ」
「げ、玄境……!? すげぇ……!」
小吉は素直に感嘆の声を漏らし、華も思わず息を呑む。そして、二人の視線が自然と梵寸へと向いた。
「じゃ、じゃあ……師匠は……?」
梵寸はわずかに口角を上げた。その瞳には、七十九年の修羅を歩んだ者だけが持つ、深い光が宿っている。
「わしか? わしはな……天境の境地にある」
「て、天境……って……」
「七段階のうち、六つ目じゃ。天境に至った忍びを――阿修羅と呼ぶ」
梵寸は長い髭を撫でる癖が抜けず、顎をなぞる仕草をした。
「す、すげぇ……さすが師匠! 俺、すげぇ人から学んでるんだな!」
「尊敬しても良いぞ」
穏やかに笑う梵寸。その姿は、十二歳の見た目をしていながらも、誰よりも重い生を背負っていた。
華はその横顔を見上げながら、袖口をぎゅっと握る。
この呪印は、きっと彼女の運命を変える。
涙に濡れた朝の光の中、少女は初めて――戦う覚悟を胸に抱いた。




